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#8『クリトン』演出ノート ──ソクラテスは人間なのか?

 Mr.daydreamer#8『クリトン』は、2023年12月2日、BLEND PARK(神奈川県小田原市国府津)にて、YPAM2023フリンジ参加作品として上演されます。
公演情報:https://mr000daydreamer.webnode.jp/next/

 昨年12月の『ソクラテスの弁明』(ぽんプラザホール)からスタートした“ソクラテスシリーズ”の第2弾という位置付けで創作されており、そのときから変わらず、ソクラテスという人物と出会うことを試みようとしています。それは言い換えれば、あくまで著者プラトンの言葉として記されたソクラテス像を超えていく(そしてソクラテス自身へと辿り着こうとする)試みとも言えます。

 さて、前作『ソクラテスの弁明』ではソクラテスという人物を超人的、あるいは化け物的な存在として捉えつつも、そんな彼の誰よりも人間的な部分を暴き出そうという作品として創作しました。しかし、今作の『クリトン』を創作するにあたり、前作とは別の側面が切り口として見えてきました。それは、ソクラテスが死を克服できてはいないのではないか?という予感です。彼(あるいは彼とその仲間たち)の理性が導き出した正義の概念は、確かに理想的な人間の「善き生」を導き出したのかもしれませんが、その一方で彼の感性・身体が求める「善き生」を否定するという矛盾を抱えたように思います。人間の感性や本能を、理性に劣るものとする考え方も理解します。単体の動物としてネアンデルタールに劣ったホモサピエンスが、動物の本能として抱えられる群れの数を理性や理想で克服して、種の繁栄を得たという話を聞いた時に、そうした考え方を人間が持つことにも合点がいきました。「神」や「正義」、あるいは「優れた法律」といった理想を抱くことで、国家という共同体を得ることができたこと、そうした国家という共同体をソクラテスは重視したことから、ソクラテスは「理想の奴隷」だったとも言えるでしょう。そんなソクラテスという奴隷の、本能・身体の言葉を暴き出さない限り、プラトンの記述を超えてソクラテスに出会うことはできないでしょう。ソクラテスの中にある人間のアンビバレンスな「善き生」を暴き出すことで、理性が絶対的価値となりつつあるこの社会(たとえば精神衛生という概念のもとで潔癖症になりつつあるこの社会、重ねて大衆にとっての不純物を虚実の力であるSNSなどのメディアで断罪しようとできる社会)で、どう生きるべきか実践的に考えてみたいのです。彼をもってしても本能・身体が恐れている「死」の受容もしくは克服を演劇として作品にすることは、Mr.daydreamerが目標として掲げる現代悲劇の創作において、最も重要なテーマの一つであると言えるでしょう。もしかすると、ソクラテスのかつての仲間たちも、彼の抱える矛盾に気がついていたからこそ、彼の生き延びる道を模索していたのかもしれません。

 それらを踏まえた上で、私個人として言葉を選ばずに言うと、その理論武装を剥ぎ取ってしまえとソクラテスに投げかけたい。その言葉が、そのまま自分自身にかえってくることも分かっていて、あえてそう言いたい。私は、ソクラテスに自分自身の影を見出していることに、この『クリトン』の創作を通して気がつきました。私はソクラテスを通して、自分自身の生き方にも向き合いたいと思っている。それを個人で行えば、自家撞着に陥って無意味な論考を繰り広げることになるのでしょうが、幸いにも私は集団創作で行うことが許されました。私としては、創作メンバーのそれぞれが自分自身と互いの人間について、自然言語以外の言葉で考え、語り合うことができる場を作ることが、表現者集団とともにある演出家にとって重要な仕事の一つだと思いますので、今作を通してそうした集団を作ることも目指しています。

 ここまで長々と演出ノートを綴ってきましたが、まとめれば、哲学の祖とも呼ばれるソクラテスから、そう呼ばれるゆえんである理性の鉄仮面を剥ぎ取った時、彼の生き様は我々に何をもたらすのか、それを様々な目線と言葉から考える創作を行っています。
Mr.daydreamerの劇空間をお楽しみいただけましたら幸いです。

Mr.daydreamer 上野隆樹

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