渡る世間に鬼はなし
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先日、公園のベンチに座っていた時のことだった。
近くのベンチに若いカップルが腰掛けていた。
しばらくの間二人に会話はなかったが、男のほうがいきなり「頼むから俺の話も聞いてくれよ」と女に懇願するように言った。
僕はその一言で二人は今、別れるか別れないかの「修羅場」なのだと察した。
女はそっぽを向いているように見えたが、男がさらに「落ち着いて話を聞けばわかるから」となだめるように言った。
しかし、女はおもむろに立ち上がり、男に向かって「さようなら」と言ってその場を去っていった。
男は天を仰ぐようにベンチに仰向けになり、泣きながら恨みごとをわめいていた。
僕は彼のそばにこれ以上いるのは耐えられないような気がして、さりげなくその場を立ち去った。
僕は思わず恋人に別れを告げられて号泣した自分の過去を思い出してしまった。
しかし、自分のことを棚に上げているのはわかっていながらも、そういう男を見ると「情けない」と思わざるを得ない。
今の若者を見ると本当にかつてこの国がいくつかの大国と戦争で戦った国なのだろうかと信じられないぐらいに思う。
昔の人は今の人よりずっと生きるか死ぬかの瀬戸際で生きていた。
生きていくための食糧にさえ日々まともにありつけるかどうかわからない。
戦争時代ともなると何とか生き残っても戦闘に巻き込まれて命を落とす危険もあった。
人々の悩みがくだらないものになればなるほど、それだけ世の中が平和な証拠だと思う。
平和なことに越したことはないが、やはり物事の良い面には悪い面も潜んでいる。
平和な社会に難点があるとすれば僕が感じているようなことなのかもしれない。
僕は女の子に厳しいことを言うこともあるが、彼女たちだってつまるところは女の子だ。
世間には人を殺めたり大金を騙し取る女もいるわけだから、もちろんすべての女を甘やかすべきだとは思っていない。
しかし、彼女たちの言動を不快に感じることはあっても憎いとは思わない。
彼女たちに抱く感情は反抗期の娘を持った父親のような親心と言ってもいい。
娘が自分のことをバカにするようになったり、冷たい態度になったら大抵の父親なら不愉快に思うことはあっても、心から嫌いとか憎いとは思わないはずだ。
ただ心の中で「もっとまともになってくれればいいのにな」と思うに違いない。
今の日本は甘ったれを生む社会だと思う。
平和になった分、そのツケが社会の至るところに現れている。
だらしない若者にかける言葉があるとすれば、「しっかりしろ」という言葉だ。
僕自身ちゃんとした若者だったわけではないが、苦労して半世紀近く生きてきた今の自分の本音なのだから言わざるを得ない。
昔の人々が抱えていたような問題が社会からなくなったとはいえ、現代社会には現代社会なりの問題がある。
社会の質が変われば人々が抱える問題の質も変わるのは当然だ。
平和な社会にも色々な落とし穴がある。
社会で生きていくためにはそういう落とし穴にはまらないようにする知恵が必要だと思う。
かつて人気だったテレビドラマに『渡る世間は鬼ばかり』というのがあったが、このタイトルは世知辛い世の中を表現したものなのだろう。
確かに世知辛い世の中だ。
世の中には他人の弱みにつけ込んで利益を得ようとする人間の悪意が溢れている。
例えば、ネット上や街中で「セレブの熟女」——つまり裕福な中高年女性とデートするだけでお金が稼げるという広告を見かける。
その広告に電話で問い合わせた人の話では、女性のプロフィールを見るのに3万円必要だと言われたらしい。
電話を切ろうとすると、女性から貰える報酬はそれ以上なので結果的に儲かると言われたという。
広告に書いてあるわけではないが、女性との肉体関係まで匂わせている。
つまりは男性の欲情につけ込んで利益を得ようという輩だ。
裕福な中高年女性という設定にしているのは、金持ちなら気前良くお金を出してくれそうに思えることと実際に長い結婚生活や独身生活でセックスレスだったり寂しい思いをしている女性が多いということで現実感を持たせるためだろう。
僕だったらこの手の話に引っかからない自信があるが、騙されてしまう男性が後を絶たないのはそういう広告がなくならないことでもわかる。
最近耳にするようになった「ロマンス詐欺」もその一つだ。
無料通信アプリなどで容姿端麗な写真を送りつけておき、メールの会話などで相手に恋愛感情を抱かせ、突然起きたトラブルなどを装って金銭を騙し取る手口だ。
連絡を取り合っている相手は写真とは別人の場合がほとんどで被害者は男女関係なくいるらしい。
つまりは他人の恋愛感情につけ込んで利益を得ようとする輩だ。
欲情や恋愛感情を餌にして利益を得ようとする人間がいるのは、それらに商品やサービスとして対価を得られるほどの価値があるためだ。
欲情と恋愛感情の両方を織り交ぜた提供の仕方もある。
性欲に関しては言うまでもないが、人間には恋愛をしたいという本能的な欲求がある。
恋愛したい人が誰でも好きなように恋愛できるわけではない。
そういう人々の欲求を満たすものとして、例えば恋愛ドラマや恋愛映画や恋愛マンガがある。
そういうのは必ずしも女性をターゲットにしているものばかりではない。
例えば、『ときめきメモリアル』という男性向けの恋愛シュミレーションゲームが過去に大ヒットし、現在までシリーズ化している。
人間というのは現実の世界で恋愛ができなければ——あるいは理想通りの恋愛ができなければ仮想現実の世界にそれを求めてしまうほど恋愛に貪欲なのだ。
恋愛に貪欲と言うより恋愛に飢えているとしか思えない。
現実の人間を対象に妄想の中だけで恋愛する「疑似恋愛」という行為もそういう欲求が現れたものに違いない。
自分があたかも相手と恋愛していて恋人になったような錯覚を抱いてしまう。
ストーカー事件の加害者の心理はそういう妄想から端を発している場合が多いらしい。
「恋は盲目」と言うが、恋愛感情というのは時として凶悪事件を引き起こすほど分別を失わせる。
恋愛感情によって犯罪の加害者になる場合もあれば被害者になる場合もある。
木嶋佳苗による連続不審死事件は被害者の恋愛感情に付け入った一例だ。
結婚詐欺という面もあったことを考えれば結婚願望とも言える。
木嶋は金に執着する女で何人もの男性から多額の金品を騙し取ったうえ、3人の命を奪った罪で死刑が確定している。
もし僕だったら彼女と知り合っていても騙されなかっただろうし、彼女は僕のような男はまず相手にしなかっただろう。
人を殺めるほどの女だということは見抜けなかったとしても、怪しい女だとは気づいたはずだ。
なぜそう言えるのかと言えば、色々な女性を見てきているし、世間には彼女のような女性もいることを知っているからだ。
被害に遭われた方には申し訳ないが、彼女が狙った男性に共通する点として「女性についての知識や経験の乏しさ」があるように思わざるを得ない。
被害者の多くは世間には彼女のような女性もいるという認識に欠けていたのではないかと思わざるを得ないのだ。
しかし、一方で木嶋という人間の知識や経験の不足ということもまた言えると思う。
彼女のように利己的かつ打算的で欲の塊のような人間がなぜ殺人を犯すリスクやそれが発覚した場合にこうむる不利益を考慮できなかったのか不思議に思う。
もし彼女に犯罪の量刑や警察の捜査に関する知識がもっと備わっていたなら、あれほど無分別に人を殺めるという発想にはならなかったはずなのだ。
僕はどちらかといえば性善説を信じているほうだが、世の中に悪い人間はいないという意味で信じているわけではなく、世の中に存在する様々な罪は結局のところ人間が生きるためにした行為であり、悪の心ばかり持って生まれた人間はいないという意味で信じている。
それが「渡る世間に鬼はなし」という言葉の意味だと思う。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるが、この言葉の意味は毎日のように犯罪と接している警察の人間がもっとも実感として感じているに違いない。
今の自分と若い頃の自分を比べてみると、やはり若い頃のほうが失敗しやすかったのは確かだ。
人生の失敗は判断力の悪さから来ることが多い。
知識や経験が乏しいのはもちろん、その範囲が狭かったり偏っていたりするとまともな判断ができなかったりする。
僕の場合は自分から求めて多くの人と関わってきたわけではなく、生きていくうえでそうせざるを得なかった。
しかし、それによって結果的に若い頃よりはましな判断力が身についたのだ。
言うまでもなく人生の時間は限られている。
世の中のすべての事を知るのは不可能だ。
ただ、浅くてもいいから幅広い知識や経験を身につけるようにするのがより適切かつ常識的な判断力を身につけるひとつの方法だと思う。
「触らぬ神にたたりなし」という言葉があるように厄介な物事に巻き込まれて自分が損をするようなら関わらないほうがいいかもしれない。
ただ、辛い経験も含めた過去の経験があるから今の自分があるのは事実だ。
世の中で揉まれてきた経験が今の自分の血となり肉となる。
良い思い出も悪い思い出も今の自分を助けてくれる。
そういう意味で経験や思い出は色褪せることのない宝だ。
辛い境遇で生きている読者もいるかもしれないが、それも糧になる日がいつか来ると信じて前を向いて生きていってほしい。