普通にしていればよかった
いつも肩に力が入っていて、人がいると緊張感が走る。
それが私の日常だった。
こんな風になりたい。
だからそのためにどうするべきか。
そうやってなりたい自分を目指すことは今の自分に対してできていない自分を否定していることにもつながっていた。
向かい側から人が来たとする。
よけなければ。
そう思っていつも反射的にふちによけて、運がいいとありがとうとかすみませんと言われることがある。
でもたいていは私のことなど目にも入っていないかのようにズカズカと通り過ぎていく。
そのことがだんだんストレスになっていた。
譲ってあげたのに。
ありがとうとか頭を少し下げるとかできないの?
なんで私ばかりよけなきゃいけないの?
私にとってもあなたがいると通りづらい。
あなたも譲ろうという気持ちはないの?
お互いに譲り合えば気持ちがいいのにいつも私ばかりよけている。
そのストレスが嫌になってきて今日初めてよけない選択をした。
向かい側から来たのは3人横並び、3列になった男性の集団。
どの人がよけるんだろう。
そんなことを思いながら歩道の右側を歩きながら
緊張でドキドキしているのを感じたまま
まっすぐ歩いてみた。
心なしか私のそばを通る男性がよけてくれたのか
ぶつかることはなかった。
私も傘が当たらないようにすれ違いざま斜めに持ち替えた。
そのあと、子どもの帰りを待つ間、道のふちに立ったまま
後ろを通り過ぎる自転車の人がぶつかることなく通り過ぎていった。
今までならすでにふちにいるのにそれ以上に相手をよけていた。
ただ普通に立っていただけ、ただ普通に歩いていただけ。
それでもぶつからなかった。
実は相手も大半の人はさりげなく
よけてくれていたのかもしれないと思えた体験だった。
そして私は年とともに気品のある女性になりたいと思っていた。
気品のある女性ならどうするだろう。
そう思って気品のある女性風のふるまいをしようとした瞬間
「普通にして入ればいい」という声が聞こえてきた。
ただ普通にしていれば、品もあるし、色気も出てくる。
何かしようとしなくていいという声。
なぜならもともと普段から他人を気遣うことを意識して、
むしろ必要以上に自我を抑えて生きてきたから。
力みを取るだけでいい。普通にしていればいい。
そんな声が聞こえたからそうすることにした。
理想を追いかけて気取った態度をとるよりも
力を抜いてただの自分としてそこにいる。
そうしてみたら見えてきた他人の気遣い。
相手に気を遣ってさりげなく何かをしてくれているのは
私だけじゃなかった。
気づかなかっただけで私も気遣ってもらっていた。
普通にしていることのよさを知った。