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ガンディーの塩の行進!

塩の行進

ガンディーは1922年に騒擾罪で逮捕されます。

しばらくの間、ガンディーは政治の表舞台から退いていました。
それは、暮らしの改善運動を村々で推進し、「不可触民」への差別をなくすための運動を行っていたからです。
ヒンドゥーとイスラムの共存を説き、外国製の綿布をボイコットし、カーディー(Kahdi)を普及させるために全インド紡ぎ手組合の活動を展開していました。

1929年、ガンディーは政治の舞台にカムバックします。
ラホールで開かれた会議派の大会でガンディーは呼びかけたのです。
1年以内に完全独立を勝ち取ろう!
その目標のために非暴力の市民不服従運動を行おう!
今回は「完全独立」が実現しない限り運動を停止しない!

思いきった呼びかけでした。
そのためにはどんな民衆の行動が可能か、ガンディーは悩みます。

誰でも参加できて、民族や宗教カーストの差別のない戦いは何か、熱血的な若者を導き、人々の怒りが暴動やマイノリティー迫害に向かわないようにするためにはどうしたらよいか考えます。


そこで思いついたのが「塩の行進」のアイデアでした!


19世紀以来、政府はインドの人々が使う塩に課税を行ってきました。
その根拠は塩法です。

この塩法に服従せず、自然の恵みの塩を人々が手にして行進し、独立を宣言するのです。


1930年3月12日、グジャラート地方アーメダバードから300キロ以上離れた港町ダーンディーを目的地として、ガンディーと選ばれたサッティヤーグラヒー(市民不服従運動)たち、そして集まった群衆は行進を始めました。

選ばれたサッティヤーグラヒーたちは、その後全国的に展開される運動のモデルとなるべきグループでなければなりません。
多様な出自や背景を持つ人々が「スワラージ(独立)」という目標を胸に連帯し、「インドはひとつ」というあり方を体現しなくてはならなかったのです。


出発から3週間後の4月6日、ガンディーらは朝日に輝くダーンディーの浜に到着しました。そしてガンディーが海水に浸かって身を清めた後、右手で塩をすくい上げ青空に高くかざしました。
こうして帝国に挑戦する運動が再び始まりました。


しかしガンディーは逮捕されます。続いて会議派の指導者や妻のカストゥルバも逮捕されます

前年の世界恐慌で大きな打撃を受けたイギリスは、インドの抵抗運動をおさめて再びイギリスに協力的な体制を作ろうと思い、ロンドンで円卓会議を開きます。
この会議には500以上ある藩王国を代表する王たち、イスラム教徒の代表、シーク教徒やキリスト教徒の代表、その他さまざまな社会集団の代表が招かれました。


ガンディーは国民会議派の代表として出席しますが孤立し、「完全独立」の約束を得られませんでした。
帰国後政府の弾圧が再開されます。
国民会議は非合法化され、活動家は逮捕され資金は没収されました。
1932年に7万5千人以上が逮捕されました。
ガンディーもまた逮捕されます。
今回は裁判なしの実刑宣告でした。🥺


まだ1929年に呼びかけた目標は叶えられていません。
果たしてガンディーは、インドはどうなっていくのでしょうか。


執筆者、ゆこりん


参考文献
「ガンディー自叙伝」東洋文庫

「サッティヤーグラハの歴史」東洋文庫

「ガンディー 平和を紡ぐ人」竹中千春著 岩波新書

「ガンジーの実像」ロベール・ドリエージュ著 文庫クセジュ

「ガンディー『知足の』の精神」森本達雄編訳  人間と歴史社

「ガンディー魂の言葉」浅井幹雄  太田出版

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