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瞑想は修行?

いつもmarimo's JOURNALを読んでくださりありがとうございます。
この「瞑想雑記」は週に一度ぐらいは更新したいなぁと希望的観測を含めつつ書いてます。

今回もわたし独自の解釈に沿ったコラムになります。


瞑想は修行?
坐禅は修行っぽいけど、なれば瞑想は?

わたしは「修行」と言うとどうしても「苦行」に近いマイナスイメージがつきまとう。

何かを達成するために辛いことをやる。無理してでも頑張る。やりたくないけどこれをやらなきゃ先に進めない。
何かを得るために頑張るとか、目標を達成するのに必要な特別な業みたいなもの。これが修行。

「ホントはやりたくないけど修行だと思ってやろう」なんていう言い方もあるし。


でもきちんと言葉の意味を調べてみるとちょっと違う。

「修行」とは仏教における精神鍛錬に関する用語のひとつ。名誉や財産といった人間的な欲望から解放され、生きていることそのものに満足感を得られる状態を追求すること、その行為。


すべてを手放し、なにものにも執着しない。ひたすら上を目指して、何者かになるために行うものではなく、また何かを得ようとして行うものでもない。その、何者かになりたいという欲望すら消し去るために行うもの。

何か目的のためにやるのでない、と言う解釈だと瞑想も修行のうちに入るかもしれない。


そもそも瞑想とは何かを期待してやるものではない。
と、思っている。

最初のうちは気持ちを鎮めるためとか、心の安定をはかるためとか、集中力を養うためとか思うけれど、何ヶ月も瞑想を続けていると、そういうものではないと気づくようになる。

つまり「期待すること」=「欲」であり、瞑想は最終的にその欲を手放すことを目指しているから。

確かに瞑想は「心のトレーニング」。精神鍛錬といえばそうかも知れない。でも、何かを期待しながらやると途中でつまずいてしまう。

なぜか?

何も起こらないからだ。


気持ちは落ち着かなくてもいい。
心の安定なんか図らなくていい。
気持ちが散漫した状態でソワソワしながら坐ること。
落ち着かないまま坐り続けること。

これが「瞑想」。


続きます↓

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