死について考えているようで、実は死後について考えている
「死ぬとはどういうことか」と考えるのはすごく面白い。
この問いに答えはない。答えを認識する主体が存在しないからだ。
答えがない問いに立ち向かうのは時間の無駄だと嘆かれるだろうか。しかし人の営みなど無駄ばかりである。無駄じゃないことなどどれほどあるだろうか。
南直哉さんの本にこのような記述がある。
「友よ。そのとき君は大人にたずねただろう。死ぬとはどういうことか。死とは何か。すると大人は答える。
天国に行くの。
遠い世界に行くの。
お空の星になるの。
けれども、友よ。それは君に聞きたいことではないのだ」
ー『老師と少年』南直哉
確かに「死ぬ」を考えるとはどういうことなのだろうか。
「生きるとはどういうことか」は時間的な問いであるが、「死ぬとはどういうことか」は瞬間的な問いである。瞬間的な問いは、瞬間ゆえに問いにならないのだろう。
だからこそ、「死ぬとはどういうことか」という問いの答えは「天国に行くの」とか「お星様になるの」ということになるのだろう。
今の時間的な人間の捉え方ならば、人は生まれ、そして生き、死ぬという、一直線的な時間を有する存在であるということになる。
「生まれるとはどういうことか」→これは問いなのか?
「生きるとはどういうことか」→時間的な問い
「死ぬとはどういうことか」→瞬間的な問い
『Re:ゼロから始まる異世界生活』(以下:リゼロ)の主人公ナツキスバルが辿る死の過程を考えることで、死後の世界を考える手がかりになるかもしれない。
リゼロでは、主人公は死ぬと、ある地点に意識が戻り、人生を歩むというものである。図解すると下のような形。(※本当はもうちょっと時間軸が複雑なのだけど簡略化)
この作品の中にあっては、死後の世界が存在しない。(アニメしか見てないから原作で今登場してたらごめんなさい)この作品の面白いところは、「ひょっとしたら死後の世界など存在しないのではないか」という問いを提供してくれるところにもある。つまり、死後の世界など存在せず死んだら、時間軸がずれたものとして、別世界へ転移するという考え方である。
これは仏教における、輪廻転生とはまた違う。輪廻転生では、死後の世界を巡りまた現世へ立ち止まる。そしてその流れから解脱し、別の世界へ移る。輪廻転生で想定されている世界の流れは一つだが、リゼロで想定されている世界は流れが一つではない。
これは死=タイムリープと捉えれば、『Steins; Gate』も同じような問いかけを提供している。どちらも面白いけれど、「死後の世界はないのかもしれない」という問いを提供した点において、リゼロの方が感慨深い。感動した。
まとめ
死ぬとはどういうことなのかを考えるのは面白い。
『リゼロ』も仏教も『老師と少年』も面白いからみんな見るべし。