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太平洋戦争開戦と三人の男

 だれも裁判を受けていません。


松岡洋右

日米諒解案

石川信吾

7月の御前会議で「対英米戦を辞せず」、9月で「辞せざる決意」、11月は「決意する」となり、12月には「やる」ここという風に大元帥の意思がつめられていく。つまり御前会議は昭和天皇に戦争責任者としての決意と覚悟を促すためのものであったと言うことができるであろう。

この間のいきさつについて、1941年当時昭和天皇の蓮沼侍従武官長が嶋田繁太郎海軍大臣に対して、「六月には、陸海軍ともに(対英米)不戦なりしに、海軍省軍務第二課長(石川信吾)の反対にて一夜にして変じ、次いで七月、九月の御前会議となりたり。この態度に導きたるは海軍なり。」と発言している。

一方この発言の当の石川信吾は戦後自分が対英米戦争を始めたんだと豪語している。事実南部仏印への日本軍の侵攻は彼がたくらんだものである。その背後にソ連との同盟を企てる四国同盟の企みがあった。「N工作(野村大使の対米平和交渉)成立せば国内情勢は急激に英米依存に復帰すべく、ひいては国防国家体制の建設、統制経済施策等に一大動揺をきたすところきわめて大なるをもって事前非常立法を立案準備するを要す。」 つまり事前非常立法などで野村大使の平和交渉の成立をつぶさなければならないと本人はいっているのである。

https://web.archive.org/web/20160202050731/http://urasima77.at.webry.info/201108/article_1.html

瀬島龍三

昭和16年(1941年)12月6日
野村・来栖両大使、本国に対し、ルーズヴェルト米大統領発天皇宛親電が発電されたことを報告

最近の日本諜報史研究に関する問題点の指摘 ルーズベルト親電・ヤルタ密約  木村 洋
http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/pic504.pdf

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