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あめ たりしほこ?王 と遣隋使についてリンク
資料リンクです。
かつての歴史の謎はわかりません
なので資料だけリンクします。
芦田愛菜ちゃん、本能寺の変の諸説を正論で一蹴w
— 弾正 (@naoejou) May 25, 2020
様々な説が延々と語られた後に、全てを覆すまとめ…流されずに主張する姿勢凄いな😂 pic.twitter.com/9FWTiji6NP
隋の中国史書に記述された国王
古代日本の謎の一つです。
各史書の記述
隋書81巻列傳第四十六 東夷俀國傳
開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣
闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟
天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟髙祖
曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六
七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等
一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮
次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼
一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長
也十伊尼翼屬一軍尼
北史 卷九十四 列傳第八十二 四夷 倭
至開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗,使者言倭王以天爲兄,以日爲弟,天明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,雲委我弟。文帝曰:「此大無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌,後宮有女六七百人,名太子爲利歌彌多弗利。無城郭,內官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼一百二十人,猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼,如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼
至開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗、使者言倭王以天為兄、以日為弟、天明時出聽政〔3〕、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。文帝曰:「此大無義理。」於是訓令改之。
南朝の陳を平定するに及び、開皇二十年(600年)に至って、倭王「姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌」が遣使を王宮に詣でさせた。上(天子)は所司にそこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、天が(未だ)明けざる時、出てきて聴政、結跏趺坐し、日が出ればすなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。文帝が曰く「これは全く道理に適っていない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
舊唐書 卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本
其王姓阿每氏
倭国王の姓は阿毎(アメまたはアマ)氏で、一大率(いちだいそつ~王直属の軍隊)を置いて諸国を取り締まらせている。(そのため)諸国はみな一大率を畏れて服従している。(倭国内には)十二等の官職を設けている
新唐書 220巻 東夷 日本
「其官十有二等。其王姓阿每氏」
「用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」
官位には十二等級(冠位十二階)があり、国王の姓は阿毎(あめ又はあま)氏である。
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と名乗り、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊(みこと)を尊称として、筑紫城に存在していた。(そして)彦瀲の子の神武(じんむ)が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
神武の次を綏靖(すいぜい)と云い、その次は安寧(あんねい)、その次は懿德(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(孝安~こうあん)、その次は孝靈(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいにん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)となる。
仲哀が死んだあと、開化の曽孫女(そうそんじょ~ひ孫むすめ)の神功(じんぐう)を王とした。その次は応神(おうじん)、その次は仁德(にんとく)、その次は履中(りちゅう)、その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顯宗(けんそう)、その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。
欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。その次は海達(敏達~びんたつ)、その次は用明(ようめい)となる。また言うには、(この用明が)多利思北孤(たりしほこ)の代理として来朝したのは隋の開皇(かいこう)末(600年)にあたり、そのとき初めて(大和王朝は)中国と国交を通じたのである。その次は崇峻(すしゅん)となる。その崇峻が死んで、欽明の孫女の雄古(推古~すいこ)が継いだ。その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)となっている。
宋史 491巻 列傳 卷第二百五十 外國七 日本
按隋開皇二十年,倭王姓阿每,名自多利思比孤,遣使致書
日本書紀と隋書の比較
「この双方の史書、『隋書』と『日本書紀』との記述を比較してみます。
表1 隋と我が国との交流記事比較表
六〇〇年(推古八) 俀〈たい〉国タリシホコ王隋朝に遣使
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし
六〇七年(大業三) タリシホコ「日出づる処の天子」の国書持参の遣使
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし
六〇七年(推古一五)小野妹子を中国に派遣
『日本書紀』にあるが『隋書』には記事なし
六〇八年(大業四) 中国が使者裴世清を派遣
『隋書』によると、裴世清はタリシホコと面談している。
『日本書紀』によると、裴世清が「皇帝倭皇に問う」の国書を届ける。推古天皇は面会していない。
六〇八年の のち 『隋書』に「遂に絶つ」の記事が出ている。
が、『日本書紀』には関係する記事なし。
六一〇年(大業六)『隋書』に倭国朝貢(俀国ではない)
『隋書』にあるが『日本書紀』に記事なし。
六一四年(推古二二) 推古天皇犬上御田鋤を大唐に派遣
『日本書紀』に記事はあるが『隋書』に記事なし。
六一八年 隋の滅亡(唐の建国)『日本書紀』に記載なし」
「『新唐書』のタリシホコに関係する部分の抄訳は次のようなものです。
『新唐書』巻二二〇 東夷伝日本 より
【日本はいにしえの倭奴国である。都を去ること一万四千里。新羅の東南にあって海中の島々に住んでいる。(中略)その王の姓は阿毎氏である。(神代の系譜、神武天皇から累代の天皇の系譜を述べている 中略)敏達の次用明。用明はまた、目多利思比孤といい、隋の開皇年代の末に中国と初めて通じた。次欽明、次崇峻。崇峻の死後、孫娘推古が立つ。次舒明、次皇極・・(以下略)】」
遣隋使
隋文帝の帝紀開皇二十年には倭国の記事はありませんでした。
隋書 3巻 帝紀 第三 煬帝上
大業四年
「三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物」
「六年春正月」「己丑,倭國遣使貢方物。」
北史 卷十二 隋本紀下 第十二
大業四年
「三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅含國並遣使貢方物」
「六年春正月」「己丑,倭國遣使貢方物」
裴世清の訪問
隋書 81巻 列傳 第四十六 東夷 俀國
大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽之不恱謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
明年上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹島南望𨈭羅國經都斯麻國逈在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷洲疑不能明也又
經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都其王與清相見大恱曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隈不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾舘以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝徳並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引清就舘其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶
北史 巻九十四 列傳第八十二 四夷 倭
大業三年,其王多利思比孤遣朝貢,使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴世清使倭國,度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國。又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德何輩台從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗從二百餘騎,郊勞。既至彼都,其王與世清。來貢方物。此後遂絕
日本書紀 卷第廿二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇
豊御食炊屋姫天皇 推古天皇
十一年
「十二月戊辰朔壬申。始行冠位。大徳。小徳。大仁。小仁。大禮。小禮。大信。小信。大義。小義。大智。小智。并十二階。並以當色■縫之。頂撮總如嚢。而著縁焉。唯元日著髻華〈髻華、此云于孺。〉
十二年春正月戊戌朔。始賜冠位於諸臣。各有差」
十五年
「秋七月戊申朔庚戌。大禮小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利爲通事。
是歳冬。於倭國作高市池。藤原池。肩岡池。菅原池。山背國掘大溝於栗隈。且河内國作戸苅池。依網池。亦毎國置屯倉。
十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。▼是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。▼是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
丙辰。饗唐客等於朝。
九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
辛巳。唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」
十七年
「秋九月。小野臣妹子等至自大唐。唯通事福利不來。」
先代舊事本紀 卷第九 帝皇本紀 推古天皇
推古天皇
「十一年十二月,戊辰朔壬申,始制冠位十二階,各有差。
十二年春正月,戊戌朔,始賜冠位於諸臣。各有差」
「十五年秋七月,戊申朔庚戌,大禮-小野臣妹子遣於大唐,以鞍作福利為通事。此遣唐使之始也。
十六年夏四月,小野妹子至自大唐國。號妹子臣曰-蘇因高。即大唐使人-裴世清、下客十二人,從妹子臣至於筑紫。語在別記。
秋九月,辛未朔辛巳,唐客-裴世清罷歸。
則須復以大仁-小野妹子臣為大使,小仁-吉志雄成為小使,小禮-福利為通事,副于唐客而遣之。
物部鎌足姬大刀自連公為參政。
十七年秋九月,小野臣妹子等至自大唐。」
「廿二年夏六月,丁卯朔己卯,詔大仁-矢田部御嬬連公,改姓命-造。則遣大唐使,復大禮-犬上君御田鉏為小使而遣之。物部惠佐古連公為大連。
廿三年秋九月,矢田部造-御嬬、犬上君御田鉏等,至自大唐矣」