COMICO ART MUSEUM~②宮島達夫「タイム・ウォーターフォール~
1 配色と水への違和感
ギャラリー1、2の草間彌生の展示空間を出て、順路の案内に従い、棟の外に出る。すると、進行方向の先から、微かに水の流れる音が聞こえる。歩みを進めると、湯布院市内の水路が控えめに目の前を横切っている。
その水路の上に架けられた小さな橋を渡ると、美術館の次の棟の入り口に辿り着く。その棟の玄関周辺はまたしても黒色の石の上に水が張られており、棟の外観と同じ色で統一されている。
一方で、通路の部分はより薄い灰色で統一されていて、そこでは通路とそれ以外の空間が色の濃淡によって明確に区切られていた。
入り口付近に張られた水の存在に違和感を残したまま別棟に入ると、ギャラリー3の展示空間へと案内される。その空間の通路には棟の入り口の通路と同じく、灰色の石が敷き詰められているのであるが、展示物の周辺だけは水が張られてあった箇所と同じ黒色の石が配置されていた。
入り口で、「黒色部分には水が張られてあり、通路箇所は灰色となっている」と刷り込まれた僕は、この黒色の石と灰色の石との間には、仕切りや段差がないにもかかわらず、無意識的に水の存在を意識して、足を引っ込める。
そして、恐る恐る自分の足先を確認し、ここに水が張られていないことを確認した後、安心して意識を展示物に持っていった。
2 違和感の正体
ギャラリー3の展示物「タイム・ウォーターフォール」。直訳すると「時間の滝」。僕は、この展示物の前で作品名を確認したとき、初めてこの棟に感じていた違和感の正体を探りあてた気がした。
この棟、及び本棟の入り口箇所では、いずれも黒い石の上に水が張られてあり、この美術館の敷居を跨いだ者は、視覚的に、色彩的に「水」の存在を意識させられる。
そして、本棟から別棟へ行くためには、湯布院の水路を横切らなければならない設計にすることで、視覚だけでなく、聴覚・嗅覚からも「水」の存在を刷り込ませられる。
このような刷り込みを受け、ギャラリー3へと向かった人間は、否が応でも、この空間内で「水」の存在を感じながら「タイム・ウォーター・フォール」を鑑賞することになる。
3 宮島達夫「タイム・ウォーターフォール」
「タイム・ウォーターフォール」は、縦長のLEDスクリーン上で、デジタル数字が不規則に生起しては、流れ、そして消えていき、かつそれが永遠に繰り返されていく作品である。
そこでは、デジタル数字が流れ落ちる速度や道筋はそれぞれ異なっており、一つとして同じ「今」は存在していないことが示されている。
この作品を鑑賞するまでに「水」のイメージを刷り込まれた僕の脳内では、デジタルの数字がまさに飛沫を上げながら黒色の床に落下していった。そして、それは、「水」のイメージを媒介として、普段疎かになっている人間の「今」への意識を先鋭化することに成功しているといえるだろう。
この作品の背景はガラス張りになっており、作品を鑑賞する際には、棟の外側に植栽されてある木々をも同時に鑑賞することになる。
背景の木々は上品な空間であればどこにでもあるような木々のはずであった。
しかし、この空間で、「水」から、そして生じては流れ、消え、また生じてくるデジタルの数字から、明滅する「今」を認識させられた僕には、その木々の一本一本が、まさに一瞬一瞬に生起しては消えまた生起することを繰り返しているように感じられてならなかった。
僕は、この作品を前にして、三島由紀夫の仏教・唯識論の認識を主題にした『豊饒の海』のこの一節を思い出した。
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