関係の糸を引き裂き、自由な存在を撒き散らせ─03 退隠する対象
本連載02では、網野善彦の「「無縁」の原理」を考察し、その具体的なイメージとして宮崎駿監督『もののけ姫』を取り上げた。
ムスビの縁を断ち切り、「無縁」の人として生きること。鮮やかな乗り換え、遍歴をつうじて、自由に生きること。これが前回の主題であった。
連載最終回の今回は、「無縁」の原理を一般化して、人間だけでなくあらゆる存在が「無縁」であるということを描きだす。
1 OOOの根本原理としての「退隠」
網野善彦の「無縁」の原理を、実在一般にかんする形而上学的原理にまで高めたとすれば、それはグレアム・ハーマンの「退隠」の原理のようなものになるだろう。
ハーマンは、オブジェクト指向存在論(OOOと略記される)という自らの立場にもとづいて独自の議論を展開している現代の哲学者である。オブジェクト指向存在論とは、それ自体で独立した個体的対象を哲学の中心に位置づける、という立場だ。ハーマンは、オブジェクト指向存在論の根本原理について、つぎのように述べている。
直接的なアクセスからの事物のこうした退隠(withdrawal)ないし留保(withholding)が、OOOの中心原理である。
ハンマー、人間、製鉄所、カモシカ、木星、衝突事故、ヒッグス粒子。この世界には、さまざまな対象があふれている。それらはどれも、関係から独立し、自立的に存立している。したがって、それらは自らに直接的に触れようとするあらゆる試みを留保させ、そこから退隠する。つまり、あらゆる関係から退き、自己自身のうちへと隠れてしまうのだ。
個体的対象とは、ムスビの縁を引き裂き、自己のうちへと退隠する「無縁」者である。オブジェクト指向存在論の根本原理である退隠は、存在論化された「無縁」の原理だと言える。ハーマンにしたがえば、対象はそれ自体で自立的に存在する、徹底的に非関係的な実在なのだ。
2 OOOによる相関主義批判
以上が、オブジェクト指向存在論の根本原理である。だが、なぜハーマンはこうした主張をするのだろうか。より詳しく考察することにしよう。ハーマンは、つぎのように述べる。
わたし自身のオブジェクト指向の立場は、ハイデガー的であると同時にホワイトヘッド的であると呼ばれうる、建設的で体系的な哲学への最初の試みである。あらゆる現前からの対象の退隠は、わたしのモデルのハイデガー的側面であり、他方で〈人間-世界〉という独占的関係の徹底的な解体はホワイトヘッド的側面である。
ハーマンによれば、オブジェクト指向存在論には、ハイデガーとホワイトヘッドの哲学からそれぞれ引き継がれた側面がある。ハイデガー的側面は、先ほど確認した対象の退隠である。これに対してホワイトヘッド的側面は、〈人間−世界〉関係の解体である、と述べられる。この側面は、「相関主義」(corrélationisme)批判とかかわっている。まず、この点について確認しよう。
相関主義とは、カンタン・メイヤスーが命名したもので、カント以降、哲学の暗黙の前提となってきた考え方である。それにしたがえば、哲学があつかえるのは、人間の思考と世界との相関関係だけである、とされる。それゆえこの立場にしたがえば、哲学は人間不在の世界に存在する事物について、文字どおりに語ることが不可能となる。かりに人間不在の世界について語ったとしても、その対象はあくまでも人間の思考によって意味づけられた、相関的なものにすぎないのである。対象は、語られたとたんに、かならず思考と相関する。それゆえ、哲学的語りがこの相関的循環を抜け出て、思考と相関しない事物そのものに達することはけっしてできないのだ。
ハーマンやメイヤスーたちは、こうした相関主義を乗り越えて、事物の実在そのものを語ることを目指した。そして、とりわけハーマンが相関主義を乗り越えるうえで重視したのが、ホワイトヘッドの立場であった。
ホワイトヘッドは、人間だけでなく、あらゆるタイプの存在者を同列にあつかう。この宇宙に存在するものは、みな同様に「現実的存在」(actual entity)であるとされる。ホワイトヘッドが描く宇宙において、人間は特権的な位置づけをもたない。世界を意味づける人間の思考が、背後に控えている必要はまったくないのである。ホワイトヘッドの哲学は、数十億年まえのどこかの宇宙空間をただよう素粒子どうしの衝突を、人間の思考を措定することなく語ることができる。このようにホワイトヘッドは、カント以降、哲学を支配してきた〈人間-世界〉という独占的関係を、軽々と飛び越えていくのである。
3 OOOによる関係主義批判
ハーマンは、ホワイトヘッドが相関主義を乗り越えているという点を高く評価する。だが他方で、ホワイトヘッドの哲学が「関係主義」(relationism)に陥っているという点を批判している。ホワイトヘッドの哲学には、退隠、あるいは「無縁」の原理が欠けているのだ。この点について確認しよう。
そもそもホワイトヘッドは、この世界に存在するものを「実体」とみなす哲学を批判している。実体とは、デカルトの定義によれば、「存在するために他のいかなるものをも必要とせずに存在するもの」を意味する。ホワイトヘッドにしたがえば、この世界に存在するものは、このような実体ではない。むしろ、存在者はたがいに関係しあいながら、そのつど自己自身をつくりあげている。たとえば、生物はそれ自体で存在しているのではなく、環境のあり方に決定的に依存しているだろう。
ホワイトヘッドは「現実的存在」を、他のものとの関係によって自己をつくりあげるもの、と定義した。現実的存在は、他のものを「抱握」(prehension)という働きをとおして自らのうちに引き込み、それらを構成要素とすることで自己自身を織りあげる。そして、その生成過程が完結すると、自分自身もまた、他のあらたな現実的存在の構成要素となっていくのである。現実的存在は、抱握という関係的な糸、ムスビ、縁によって織りなされている。そうした現実的存在が満ちあふれた宇宙を描いたのが、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」である。
だがハーマンは、まさにこうしたホワイトヘッドの立場を批判している。ハーマンにしたがえば、ホワイトヘッドは関係主義に陥っているのだ。ハーマンは、つぎのように言う。
現実的存在の関係はすべて内的関係である。それゆえ、ホワイトヘッドの体系において、特殊な諸存在者がどのようにして存在しうるのかは、まったくもって理解しがたいことになる。むしろそこで見いだされるのは、抱握の帝国である。・・・・・・ひじょうに逆説的なことに、ホワイトヘッドは無傷な個体的対象とともに出発したにもかかわらず、けっきょくそれらを関係の全体的体系のうちへと飲み込ませてしまったのだ。
現実的存在を織りなす関係は、内的関係である。抱握という関係の糸は、存在の固有性に深く食い込んでいる。したがって、ある現実的存在の固有性は、他の現実的存在の固有性に依存することになる。しかし、この他の現実的存在の固有性もまた同様であって、こうした連鎖は無限につづいていくことになる。
たしかにホワイトヘッドは、人間という個体の特権性を剥奪し、あらゆる存在者に対して平等の個体性をあたえた。しかし、関係を重視することによって、けっきょく個体を関係の全体的体系のうちに解消してしまったのである。個体的対象の自立性を重視するハーマンからすれば、関係主義を認めることはできない。
4 空虚に封じられた非関係的実在へ
ところで、ホワイトヘッドは、それ自体で自立的に存在する実体を「空虚な現実態」と呼ぶ。ホワイトヘッドからすれば、他のあらゆるものとの関係から成り立つ現実的存在こそが具体的な現実態なのであって、実体は具体性を欠いた空虚な現実態にすぎないのだ。
ハーマンは、この「空虚な現実態」という否定的な表現をあえて借用し、「空虚」という語の意味をずらしてもちいる。ハーマンは、対象は「空虚な現実態」(vacuous actuality)である、と宣言する。だがそれは、「空虚に封じられた非関係的実在」(vacuum-sealed and non-relational reality)という意味においてだ。つまり、対象は、空虚によって取り囲まれ、他のものとの関係から徹底的に隔絶されているという意味で、「空虚な現実態」なのである。ハーマンにしたがえば、「世界は、あらゆる関係から退隠し、自らの私的な空虚に住まう対象で満ちている」。対象と対象のあいだには、空虚が穿たれているのだ。
ホワイトヘッドの宇宙のように、関係によって徹底的に規定されると、存在者はそこから身動きが取れなくなってしまう。それに対して、ハーマンが語る対象は、私的な空虚のうちに退隠していて、自らのうちに余剰を隠し持っている。そうした隠された秘密を、あるときふと噴出させることによって、この世界に新しい驚きが生み出されるのである。
ハーマンは、「ハンマーが壊れる」という例をよくもちいる。ハイデガーの分析によれば、ハンマーは、釘を打ち、家を建て、わたしの安全を確保する・・・といった目的のネットワークを構成する一コマにすぎない。しかし、ハンマーはいつまでもこのネットワークにはまりこんだままの存在ではない。それは壊れることができる。つまり、釘を打つという役割をとつじょ放棄して、まったくちがう新たな側面を噴出させることができるのだ。それは、ハンマーが本質的に非関係的な実在であり、関係によっては汲みつくせない余剰を隠し持っているからこそ可能になる。
ハーマンのオブジェクト指向存在論にしたがえば、あらゆる対象が、私的な空虚のうちに退隠する「無縁」者である。それは自らのうちに隠し持つ余剰をとつじょ噴出させ、現在の関係性から抜け出していく、自由な遍歴者でもある。
ハーマンにしたがえば、この宇宙は、こうした「無縁」の対象で満ちあふれている。この宇宙そのものが、タタラ場なのだ。ムスビはつねに切り裂かれ、ミクロな乗り換えがたえず生じている。
本記事は『中央評論』311号所収の拙論「ムスビと乗り換え──関係と無関係の思想をめぐる試論」を元に再編集したものです。同誌はあまり流通していない大学内向けの雑誌であり、また刊行から時間が経っているので、noteにて公開いたしました。同誌の特集「リアリティの哲学」には、拙論以外にもおもしろい論文がたくさん含まれているので、機会があればぜひ手にとってみてください!
ヘッダー画像制作:村上真里奈
研究をしながら、分かりやすい記事をすこしずつ書いていきたいと思います。サポートしていただけると、うれしいです!