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どこにでもある邪悪と、どこにでも咲く花

これまでの人生のさまざまな場面を支えた曲のひとつに、Bonnie Pink(当時の表記)の「Evil and Flowers」がある。
短く、アレンジも控えめで、悪く言えば目立たない地味な曲である。が、同名のアルバムの最初と最後を飾るメインチューンとなっており、聴くごとに歌詞にもメロディーにも相当時間をかけたのだろうな、という印象を新たにする、内省的な一曲だ。

当時は良さをうまく言語化できなかったが、最近ようやくひとまとまりのセンテンスになりそうなので、備忘録として記しておく。

なお、全英語詞だが本人による和訳がありそちらがとても良いため、和訳のほうを引用させていただく。

対立構造ではない邪悪と花

邪悪なものはどこにでもある
あなたの花をねらっている
走って走ってどんなに隠れたって
奴らはあなたを捕まえるだろう

曲の冒頭である。なんの導入もなくいきなり邪悪が登場する。

ここでいう花と邪悪を、善悪・強弱・美醜・光と闇・希望と絶望などの対義語で表現するのは難しい。パワーバランスが同じではないからだ。
邪悪は花を捕まえれば即座に呑み込むのであろうが、反面、花が邪悪と戦い駆逐することはない。花はただ、逃げ惑い、身を潜め隠れるしかない。

容易に踏みにじられてしまうものとして描かれる花を、私は当時から、あまりにも儚い魂の寄る辺だと感じていた。

花。自らの生をどうにか奮い立たせるもの。
だが実際のところ、それは必ずしも善きもの、良心とは限らない。私利私欲、嫉妬や羨望、復讐心かもしれない。一般的に忌むべきものと言われる負の感情になんとかそれらしい装飾をして、花に見せかけているだけかもしれない。
しかしそれが自分にとって花である限り、花を支えに生きていける。

なにを邪悪とするか、を、曲のなかで定義されることはない。
ゆえに私は思う。
邪悪の正体とは、自らの奥底に渦巻くなにかを邪悪と定義してしまう、むしろ正義そのものであるのかもしれない。と。

邪悪も花も、自分自身の中に在り常に自分を通り過ぎていく

自分自身を探しにどこかに行かなくちゃ
もしも耐えられなければね
邪悪なものも花も
やって来ては去ってゆくのだけれど

この曲の醍醐味は、
邪悪=遠ざけるべきもの
花=咲かせるべきもの
という一元的な結論を提示していないところにあると考えている。

そもそも、邪悪はどこからか忍び込んできたり、外側から悪意をもってもたらされるものではない。
常に自分の中に潜んでいて、時折姿をあらわす自分の一面だ。
だが「やって来ては去っていく」という言葉どおり、花も邪悪も、永遠にひとつのかたちをとどめることはない。ひとつの花が散ったとしても次の花が咲き、花が咲けばまた新たな邪悪がそれを断罪しにやってくる。

そうして人間は、自分の中に咲いた花を(ときには自分自身で)散らしつつ、邪悪から逃げたり、あるいは受け入れたりしながら自分自身という時間を生きていく。

彼らそのものも、彼らが織りなす景色もすべて人生のひとつのシーンで、どちらも紛れもなく自分の本当の姿である。
花はいつも脆弱であるが、散ればまた咲く。
邪悪はいつも執拗であるが永遠に居座るものではなく、暴いて花を散らせば姿を消す。
彼らを精神の支配下に置ければ悟りが開けるのだろうが、おそらく大半の人間が、そうはできずに終わるのだと思う。
だがそんなことも含めてどう在るかは自分自身が決めるもので、行き先も、花と邪悪の扱いも、自らの中にのみ存在する。

強くあれ、善くあれ、美しくあれということを一切述べずに曲は終わる。
なにもかもは移りゆく。在り方は自分に委ねれらている。
邪悪と花の定義ですらあなた次第だ、と。

やわらかい諦めと自省に満ちた語りかけは、易しい哲学書を読むようにも感じられる。
あなたは、どう生きるの?
と。

私は、EvilとFlowerになにを見出したか

このアルバムが発表された当時、私は果てしない暗闇の中にいた。前作「Heaven’s Kitchen」では前向きな解放感に随分と救われたものだが、一面では明るくあろうとすることに無理を感じてもいた。明るく振る舞っていても自分の根底が変わるわけではない。自分のもっとも深いところを流れる激情の温度を痛感するごとに、濁流を表層的な明るさで押さえつけていることの矛盾と向き合わされていた。
そんな中で聴いた「Evil and Flowers」は、邪悪と花という一見相反するものを扱うようでいて、両者は実は紙一重の存在であり、どちらも同じベクトル・同じ線上にいることを教えてくれた。
邪悪を邪悪として退ける必要はなく、むしろなにが邪悪かを、私自身が決めなければならない。それは今まで自分が下してきたどんな判断よりも難しく、私にとっての邪悪とは、を、ひたすら自問自答することになった。
結論として自分が「邪悪」と規定したひとつが、妥協だった。私にとっての妥協には、言い訳と他者への責任転嫁と努力の終了が含まれる。しょうがないよ、自分のせいじゃないもん、これ以上できないよね。

これを邪悪と呼ばずなんと呼ぶ。

逆に、自分の花は「自分で決めること」だった。私が決めたからやり抜く、形にする、途中で諦めない。ただし、本当にだめなら諦めてしまってもいい。私が決めたことだから、100%やったうえの引き際も私が決める。
けれど。

そう。花は、扱いを間違えばたやすく妥協の種=邪悪に変わる。

私がこの曲を20年以上聴き続けてきて出した結論は、
「邪悪と花」
ではない。

「邪悪であり、花」

だ。

邪悪も花も、不定形のまま私のすぐ隣にいる。
隙あらばどんな形にでもなってやろうと、私自身を狙っている。

だが、潜んでいるなにかがかたちを持って立ち現れてきたとき、それに名前をつけるのは、私自身だ。


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