公開された地図を頼りに後悔することなく航海する方法論
「お父さん。やっと茅ヶ崎に帰ってきたね。やっぱり落ち着くわ」
坊主は私にそう告げた。駅のホームで両手を拡げて深呼吸し、声のトーンが疲労を遠ざけた安堵からなのか少しだけ高くなる。
東京へ向かう電車に揺られて片道一時間と少し。乗り物に酔いやすい坊主は、無理矢理寝ようと頭をあちこちに傾けながらどうしたって寝れないみたいだった。
大きな音や人混みに敏感な坊主は、電車が近付くと耳を塞ぐ。私は、それを「大丈夫だよ」と最初は伝えていたが、何をもって「大丈夫」なのだろうと分からなくなってから「大丈夫」を簡単に言えなくなっている。
東京で予定がある日は、それを隠すように楽しいことを予定に組み入れる。
私の影響でONE PIECEを好きになった娘や坊主は、この日予定の時間までに渋谷の公式グッズ店舗「麦わらストア」に行くことを楽しみにしていた。
場所は、MAGNET by SHIBUYA109 6F。
そう。109だ。渋谷の109。
だと思っていた。完全に女子の聖地、渋谷の109の中に存在していると確信していた。
私は、娘や坊主に感謝していた。まさか聖地に四十歳を越えた男盛りの私が、何の違和感もなく足を踏み入れることになるなんてと。さすが海賊。こんな大航海させてくれて幸せだと。
「子連れ家族のご褒美は、堂々と109に入れることなんだぜ」と友人に電話して自撮りを送りつけようとしていた。
建物を見て、遠くから在りし日の自分を思い出し、少し胸が苦しくなった。ここにデートで来てそのまま道玄坂へ行くことを夢に見ていたからだった。
叶わぬ夢だったが、願えば違う形でも夢は叶うと我が子を見ながら、心から「ありがとう」と伝えていた。
109の正面エントランスには、安室ちゃんの手形が置いてあった。今でも想いを重ねられることに嬉しさと同時に込み上げる悲しさに、人の感情の表裏一体を感じていた。
手を重ねたい衝動に駆られていたが、足早に麦わらストアを目指す我がクルーに置いていかれるわけにもいかないと、次の人生で会いに行きますと告げた。
渋谷の109は、もしかしたらONE PIECEの最後の島かも知れないとエスカレーターで6階へ向かう途中に考えていた。私は、娘に「ここに友達と来るようになるかもね」などと語りながらそこかしこの素敵女子に目移りしていた。
東京ってやっぱり素敵とね。
そんな感動の真っ只中にあるはずなのに、もう一つの心の機微にも気付いていた。
これは、もしかしたら娘との最後の109かも知れない。娘が生まれて十と少し。渋谷に来たのも二回目だ。もしかしたらもう私とは来てくれないのかもしれない。次に一緒に来るのは、残念な彼氏なのかも知れない。残念だ。それだけはNO THANK YOU。と心が鳴り響きだし、うら悲しくなっていた。
登るエスカレーターが、年齢を重ねる私と娘に見えてきて大航海が大後悔になりかけていた。
どうか私を助けておくれよ。
私の家族船は、どうにか6階に漂着した。
そこは見渡す限りの、女子だった。それはそれで感動でもちろん最高だった。
坊主が気持ちを抑えられずに、店内をダッシュで一周してきた。
「お父さん。お店ないよ」
私は、どうしても焦って店を探しだせない坊主の気持ちも理解していた。
興奮すると周りが見えなくなるのは一緒だなと。
「無いものを探すのが海賊なんだぜ。もう一度探してこいよ」
坊主に伝えながらも自分でも少しの違和感を感じていて焦慮に駆られはじめていた。ここは明らかに女子率が高い。女ヶ島かもしれない。
ONE PIECEはもちろん女子率が高いのは頷けるのだが、それにしても私や坊主みたいに海賊旗を掲げ店内を歩いている人が皆無だった。
私は、6階の案内図を見た。その宝の地図には「麦わらストア」の名前が記されていなかった。もしかしたら、この宝の地図は水をかけたり、擦ったりするのかと悩んだが店はなかった。
納得出来ない私は、一番私好みの店員さんがいるお店を探し、携帯の画面を見せて状況を説明した。あまりにも好みだったのでテレビ電話で友人に繋ぐ一歩手前だった。
「やぁ。ここの画面に出ている地図なら、ここにお店があるはずなんだ。ここに入るには、何かしらの暗号や鍵が必要なのかい?」
一番好みの店員さんは、この日何人に見せたのだろう笑顔を向けて教えてくれた。
「建物違いますよ。ここじゃないです」
いつから、渋谷には109が複数存在しているのだろうか。私は、渋谷には、女子の聖地109しかないと思っていた。
MAGNET by SHIBUYA109 6F
何だろうか。この MAGNET とは。
人に違うと言われた瞬間に浮かび上がってきたMAGNET とは。
私は、航路を間違えた。それが間違いだったと気付くのが遅すぎた。いくつもヒントがあったはずなのに、渋谷の109は女子の聖地だけ。その思い込みだけで、やった、ムフフ。ラッキーと浮かれていて見落としていた。
いや、間違えたわけではない。興奮して周りが見えなかっただけだ。
MAGNET の文字を。
私は、クルーの全員に船長として一切の謝罪をせずに行き先変更を告げた。
前向きな私は、心でこう感じていた。これはきっと頑張っている私に訪れたご褒美だと。
この109という聖地に足を踏み入れたのは、きっと必然なことだったのだろうってね。
事実、私の心は潤っていた。
降るエスカレーターで、昇るおじさんとすれ違った。彼もきっと大航海の最中だろうと思ってそっとウインクした。
私達は無事に109から近い所にある、MAGNET by SHIBUYA109 に到着しグッズ売場に興奮し、お宝を買い集めた。
こうして、大公開されている本物のお店に大後悔することなく大航海してたどり着き、予定を済まして帰った。
東京は、この日夕方からの初雪で初雪にテンションが上がった私達は無駄に雪を浴び、温かい食べ物を食べ電車に乗り茅ヶ崎へ帰った。
「お父さん。やっと茅ヶ崎に帰ってきたね。やっぱり落ち着くわ」
私は、自分の街だと感じているのなら一人前も近いなと感じていた。
「お父さんは、伊勢原に帰るとそう感じるけどな、この街が君たちの街になってきているのを聞いたら、お父さんも同じくらい落ち着く気がしてきたわ。この街も良いよな」
この街も好きになってきていて、悪い気はしなかった。まだまだここにいたい。
と思いながら、早くも109という宝島に郷愁を覚えていた。
本当の宝はきっと物ではなく、見つけにいく過程であり、心に刻まれる思い出なのだ。
なんのはなしですか