「生き」「づらい」ってなんやねん
朝通勤note14日目。そろそろ数えるのが面倒になってきたので次からカウントはやめよう。
昨日今日とあまりにも書きたいことがなくて、
昨日は写真を、
今日は下書きで眠ってた記事を引っ張り出してみる。
以下。
「生きづらい」「生きづらさを感じる」って最近よく聞きます。自分もどっちかというとそっち側の人間です。その言葉に逃げたくなります。
でもふと思う。
「生き」「づらい」ってなんやねん、と。
生きることが難しい?
少なくともこの言葉を使う人は(自分含めて)、今日明日くらいは住むところがあって食べるものがあって着るものがある人だと思う。
本当に生きることが難しい人は、今晩寝るところがなくて凍え死ぬかもしれないとか、もう1週間も何も食べてないとか、そういう状況を指すのではないか。
でも多分そういう人は「生きづらい」なんて言葉は使わない。と思う。
そもそも日本に住んでる限り、最終的に生活保護というセーフティーネットがあるのだから、本当の意味で「生きづらい」なんてこと起こらないはずなのだ。
そう。この言葉、文字面から受ける激しい印象よりも随分ぬるい意味合いを含んでいるな、と思ってしまうのです。
「生きづらい」という言葉に包括されている「生きる」は言葉通りの「生きる」ではなくて、
「社会的地位を維持した上で長い将来、心身穏やかに安定して生きていける」というかなりハードルの高い「生きる」を指していると思う。
こういう言葉と意味の不一致が、よく起きているなと自分でも思う。
例えば「◯にたい」とか簡単に思ってしまう自分がいる。(さすがに口にはしないようにしている)
でもそれって文字面通りの意味ではなく、「もういやになっちゃった」「全部やり直したい」くらいの意味だったりする。
これはどういう現象なんだろうか。
まず、「社会的地位を維持した上で長い将来、心身穏やかに安定して生きていける」このハードルが最近高くなっているのは事実だと思う。
あとちょっとちがうけど「死ぬまでにしたいこと」とかっていう言い回し、あれも苦手。そんな
ここで終わってた(笑)
これ書いてた頃から大きく身の回りの状況は変わりましたが、「生きづらい」という言葉に引っ掛かりを感じるのは今も同じくですね。
あ、ひとつ補足したいのは、この言葉を使っている人を責めているわけでは全くないです。
ただ、一個人の私という人間が、勝手に違和感を感じているというだけの話。
「生きづらい」なんてさ、死んだあと他の人の人生も俯瞰できるようになって始めて(そんな死後の世界があったとして)、
「ああー、私生きづらい人生だったんだな、はは」
みたいに言える言葉だよなぁという感覚がある。
言葉がオーバーなのが居心地が悪い感じがするのかね。なんなんだろう。
今日は下書きの力を借りてさくっとこの辺で終わっとこう。
明日はおやすみだー。連勤がんばった。まだ今日一日はこれからだけれども。