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大学0年生を振り返る


大学生活が始まってもうすぐ1年。いや、私は「大学0年生」だった。


なぜか?


単位がほぼない&落としたから!!!(笑えない)


いや、正確には必修の学域必修科目以外の英語、教養科目、基礎科目(数学・物理)は、2年生でもう1回取り直すことになった。


でも、単位はなくても、この1年が何もなかったわけじゃない。むしろ、めちゃくちゃ動いたし、考えたし、試行錯誤したし、「ここにいる意味」をずっと探してた1年だった。

高校後半:学力の大暴落と自暴自棄期


高校3年生の秋ごろから、精神的に不安定になっていた。


ストレスや環境の変化が重なり、気づけば鬱病に。勉強が全然手につかなくなった。


それまでは、それなりに成績が良かったし、「まあ、このまま普通に受験して、それなりの大学に行くだろう」と思っていた。


でも、急に偏差値がガクッと落ちた。


どうでもいいと思い始めた。


どこかで、「なんでこんなに頑張ってるんだろう?」という気持ちがあった。

もともと目指していた法学部にも、そこまで情熱を持てなくなっていた。


「本当にこの道でいいのか?」


そう考えた時、なんとなく「受験で燃え尽きるより、面白そうなことを学んでみたい」と思った。


なんで先導学類に来たのか?


私はもともと行政に入りたかった。

小学生の頃、親族が市議会議員をやっていた影響で、地域、特に過疎問題に興味を持つようになった。「将来は行政に入り、地域課題の解決をする公務員になろう」と考えていた。

でも、高校で少しずつ行政の仕組みを知るうちに、こう思うようになる。

「行政の中から地域にアプローチするのって、意外と難しくね?」

たとえば、補助金や制度を作っても、それを地域の人が活用するかどうかは別問題だし、行政の中にいると、やれることが限られることも多い。

「じゃあ、地域課題の解決って、もっと別のアプローチができるんじゃないか?」


そう考え始めた。

たとえば、企業やNPOのような立場から支援する。もしくは、技術を使って新しい解決策を生み出す。行政の中にいなくても、課題にアプローチする方法はたくさんあるんじゃないか?

その一方で、私は小学生の頃からロボカップジュニアでプログラミングやロボットをやっていて、技術に触れる経験もしていた。でも、高校では完全に文系に進んでしまった。

とはいえ、単純に文系の世界だけで満足できるほど、私は割り切れる人間ではなかった。

技術も興味がある。

でも、社会や人の動きも気になる。

政策や法律も面白いけど、実際に動かす側にいたい。

そんな中で先導学類を見つけた。

「文理を問わず学べるし、社会と関わることができるし、これ私にぴったりじゃん!」

…とは思ったものの、最後の決め手は単純だった。

知的好奇心に負けた。


「社会」「技術」「デザイン」「哲学」「ビジネス」……色んなことを学べる環境って、面白すぎない?

「これ全部学べるなら、めっちゃ楽しいんじゃない?」

こうして私は先導学類に入った。

4月:開幕、エンスト、試行錯誤


入学。わくわくしていた。


大学でも走りたいと思い、ゆるいランニングサークルを作る。


なかったら作る、それがモットー(?)だった。


でも、2週間で消滅。


この頃はまだ、講義にちゃんと出れていた。


それでも、「何かしなきゃ」と思って、気になるイベントには顔を出すようにしていた。

そこで偶然たまたまが重なり地創モドキになる。

5月:メンター活動とビジコン、プログラマもどき

ある学生プロジェクトでメンターをやることになった。

やってみると意外と楽しかった。


「自分の考えが、誰かのアイデアの助けになる」という感覚は新鮮だった。


でも、やっていくうちに気づいた。


「人のアイデアをサポートするのも楽しいけど、自分でイノベーションを起こしたい。」


この頃、なんとなく出たビジネスコンテストで、他大学の先輩と出会う。


「プログラム書ける?」と聞かれ、「まあ、多少…?」と答えたら、なぜかプログラムを書くことに。


結果として、プログラマもどきみたいなことをやった。


でも、その後、自然消滅した。

この頃に尊敬する大学の先生方に出会った。

6月~7月:場づくりに目覚める


メンター活動を続けながら、少しずつ「プレイヤーでいたい」という気持ちが強くなっていた。


コミュニティを作ることの面白さに気づき始める。


人が集まって、話して、何かが生まれる。その過程が面白い。


8月:転機、そして深く落ちる


8月の集中講義でとある企業と出会う。


「高齢者支援、福祉機器」の現状を聞いて、興味を持った。


ここで、後に師匠(と心の中で呼んでいる)になる人とも出会った。


でも、その頃、メンタルは限界だった。

実際に未遂をして本当に死にかけた。

支えてくれた大学の先生や家族、友人がいた。それでも、心のどこかでは、「このままこれ以上迷惑かけずに消えたい」と思っていた。


9月:バイトを辞める&地域との関わりが増える


それまでやっていたバイトを辞めた。


職場の人は良い人ばかりだったけど、自分には合わなかった。


一方で、地域のイベントに関わる機会が増えてきた。

地域創造というものに、実際に触れるようになってきた時期だった。


10月:再び深く落ちるが、学問に救われる


8月に続き、10月にも限界が来た。

実際に二度目の未遂をしてしまった。
普通のふりをするのがしんどかった。

でも、その時、救いになったのは、哲学や認知科学だった。


「自分とは何か」「生きるとはどういうことか」


そういう問いに向き合う中で、かろうじて「考えたい」という気持ちを保つことができた。


11月:研究、開発の道を意識し始める


「この人みたいになりたい」と思う先生がいた。


話を聞いているうちに、「研究って面白いかもしれない」と思い始めた。


12月:師匠との再会、研究モドキ開始、そしてADHD傾向の診断


8月に出会った師匠(仮)と、再び関わる機会があった。


ここで、「技術と社会をつなぐ仕事」に対する考えが、より明確になった。


そして、バイトの話が向こうから来た。


勤務地は50キロ先。


遠い。でも、面白そうだったのでやることにした。

また、この頃、中度のADHD傾向があることが分かった。

今までの人生の答え合わせができた気がした。

1月~2月:今年1年を振り返り、次へ進む準備


バイトをしつつ、2024融合学域学生プロジェクトのB、個人の活動の部の方でゲキ甘な研究計画書を書いて研究機材の経費申請をした。
なぜか採択された。
なので個人で研究モドキを進めることにした。
「次に何をするか」を考え始めた。

この1年で、いろんなことを試してきた。

何が向いているのか、何が楽しいのか、少しずつ見えてきた気がする。
あと今100 programというProgramに参加している非常に面白い。

まとめ:「大学0年生」だったけど、得たものは大きい


大学1年生ではなく、「大学0年生」だったかもしれない。


でも、この「0年生」期間があったからこそ、これからの自分が楽しみになった。

私の中で、「真にユーザーフレンドリーなモノやシステム、コミュニティをどうデザインしていくか」

という一生かけて考えて尽くしたい大きな問もできた。

来年も、たぶん色々やらかすけど、まあそれも含めて楽しんでいこうと思う。



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