この人で良かった、といつか心から思いたい
ちょっと遅かった。
せっかく11月22日が「いい夫婦」の日だったのに、すっかり忘れていて、タイミングを外してしまった。
夫婦生活は修行の場である、という話を書こうと思う。
私は、夫と暮らすことを、「修行」だと思うことにしている。
17年の別居生活に終止符を打って、敦賀で同居を始めた時に、周りにもそう宣言した。
すると、
「そんなに我慢しなくても、さっさと相模原に帰ってきたらいいのに」
と友人からメッセージをもらった。
心配してくれて嬉しかったし、待っていてくれる人がいるのは、ありがたいことだ。
でも、これは私の言葉が足りなかったと思う。
もうちょっと丁寧に書いたほうがよかった。
まず「修行=我慢」と思われがちなワードを使ったのが誤解を招いた元だったと思う。
修行というと、肉体を酷使するとか、痛みや辛さを我慢するとか、「負荷をかけて耐性を上げる」ことだと理解されがちだ。
でも、今の私には我慢する気など、これっぽっちもない。
自分が変化向上するために試してみることは、すべて「修行」だと思ってる。
例を挙げた方がわかりやすいだろう。
例えば、夫と二人で山に登った時のこと。
我ら夫婦のスペックは以下のようなものであった。
そもそも一緒に行動するのに無理がある組み合わせだ。
夫は、目的地に一刻も早く到達したいので、私の亀のごとき歩みにあわせたくない。
たいていは、100m先くらいで、腰に手を当て、こちらを見下ろしながら
「遅い!」
と鬼コーチのよう叫ぶのである。
これまでは、夫に怒られながら登るのが本当に嫌で、けれど、反撃してそれ以上に怒られるのはもっと嫌で、じっと我慢していた。
そして、この人とは、死んでも一緒に旅行なんかしたくない、と思っていた。
どう考えても楽しくなさそうだもの。
でも、これからは2人で暮らすのだ。
避けてばかりもいられない。
我々の違いを、単なる違いとして楽しめるようになることが、私の修行だと思うことにした。
大切なことなので強調したいが、目的は「夫と仲良くなること」ではない。
ここを間違えると、表面的平和を目指して、我慢する生活に陥る可能性がある。
そうではなく。
自分の中にある偏見というフィルターを一つずつ潰して、曇りのない目を得ることが最終目的であり、平和はその二次的産物である。
もしかすると、フィルターが消えた結果、見せかけの平和が壊れることだってあるかもしれない。
それはそれで、お互いにその方が幸せだと思えば、壊せばいいと思う。
話を山に戻す。
私は、根っからのビビりで、大声で威圧されるのは今も嫌だし、慣れることはない。
「修行だ」と覚悟を決めてはみたものの、怖いものは怖い。
そこは変わらない。
「大声には大声で!」とやり返したら余計にひどいことになるので、じっと黙り込むしか方法を知らなかったのだ。
が、黙って耐えるのはもう嫌だ。
そこで、
「これは、本当に怒ってるのか? 怒ってるというのは私の思い込みではないのか?」
と、まず自分の感じたことを疑うところから始めてみた。
わからなかったら、目の前の本人に質問すればいいわけだし。
そこで、私は訊いてみた。
「私は私のペースでしか登れないんだけど、なんでそんなに怒るの?」
すると夫は
「別に怒ってない。遅いから遅いと言っただけで、見たまんまを表現しただけだ」
と言う。
これに対して、
「いや、怒ってるじゃん!」
と言い返すのではなく、いったん素直に、そうなのか、と受け取ってみる。
すると
(えっ?! 怒ってなかったの? これまでもそうだったの? 私が「怒られた」と思い込んでただけなの?)
という発見が生まれる。
あとは、その発見を時々取り出して眺める。
すると、
(もしかして、これまで、私が怒られたと感じてたことって、全部、思い違いだったの?)
(見たまま、思ったままを大声で口に出していた夫を見て、私が勝手に「怒られた」と解釈してたってことだったの?)
(だとしたら、なぜ、私は怒られたと思い込んでたんだろう?)
(あれ? 私は、自分のことを、怒られても仕方ないやつだ、と思い込んでいるようだぞ)
そんなふうに、だんだん、自分の内側の事情が見えてくるのである。
問題は自分の外ではなく、内にあったのだった。
なぜ、そんな思い込みがあるのかは知らない。
子供の頃に、そう思うだけの強烈な出来事があったのかもしれないし、自分のプライドの高さから、他人に「できない」ことを指摘されるのが嫌で、指摘する相手を悪者にしたかったのかもしれないし、両方かもしれないし、全然別の何かがあるのかもしれないし。
でも、原因はどうだっていいのだ。
とにかく私は、できていないことを指摘されると「怒られた」と思い込む自分のフィルターを見つけて、新種の生物を発見した気分になった。
ずっと一緒に生きてきたのに、この「怒られていると思いやすい」自分のことは、まったく意識できていなかったのだ。
その結果、夫は「すぐ怒る人」から「馬鹿正直で、ただ声がデカい人」になった。
私が言う「修行」とは、そういう意味だ。
妙なフィルターを外し、知らない自分を見つけて、自分の中に取り込み、一体化する。
そして、今、見ている世界を変える。
修行のコツは、自分は偏見の塊である、と自覚することと、他人の中にある愛を探すこと、だろうか。
すぐに全てのフィルターを無くすことは無理でも、死ぬまでに少しでも減らせればいいな、と思っている。
**連続投稿301日目**