無理に優しくしなくても
歯医者の帰り道、下校途中の小学生の群れに遭遇した。
こちらはバイク、向こうは徒歩である。
ちらりと見えた集団の中に、ひとり、道路の端に寝転がっている子がいた。
それを囲む、数人の子どもたち。
通り過ぎて、信号待ちの間に考えた。
「今のはイジメか? 仮にイジメだとして、彼らの関係性や、背景も何も知らない私が、いきなり介入して、誰かが余計に傷ついたり、困ったりすることはないだろうか?」
こういう時「弱い者いじめは良くない」という一方的かつ道徳的な指摘をして終わる大人を、うんざりするほど見てきた身としては、そういう『表面の埃だけ払って、掃除をおしまいにしてしまう』ようなやり方は、本当に嫌で、自分がそうしない自信があるのかを自分に問うていたのだ。
考えてもよくわからないし、自信もないけど、気になったことをそのままにして通り過ぎるのも、寝覚めがよくない。
とりあえず、事情だけ聞いてみようと思って、引き返した。
バイクで近くに乗り付け、ヘルメットのまま
「ねえ、大丈夫? ケガしたの?」
と聞くと、周りを取り囲んでいた男の子の一人が
「バイクのおばあちゃんが、助けに来たぞー!」
と叫んだ。
初の「おばあちゃん呼び」に衝撃を受けたものの、とりあえず、転がっている子は、いじめられているわけではなさそうで、一安心。
ヘルメットを外して、近づくと、1年生っぽい体の小さな男の子が、転んで擦りむいたらしく、脛と肘に擦り傷を作っていた。
泣いているわけでもなく、痛がっている様子もないのだけれど、たぶん、その子は、転んだことで、歩くのが嫌になってしまったのだろう。
みんなの前で、恥ずかしかったのかもしれないし、疲れていたのかもしれない。
ちっちゃい子あるある、だ。
感情の容量が小さいから、何かのきっかけであふれると、すべてが嫌になっちゃうんだよね。
傷をよく見せてもらったが、血もうっすらとにじんでいるくらいだったし、骨や関節も大丈夫そうだったので
「傷を洗ったほうがいいよね。おうち近いの?」
と聞くと、これからみんなで学童に行くのだと、本人ではなく、周りの子たちが次々に応えた。
――学童なら、先生が救急箱を持ってる。
――水もあるから、ケガしたところも洗える。
――Kちゃんのおうちに帰るより、学童の方が近い。
――歩けないなら、おばあちゃんのバイクに、乗せてもらったらいい。
いっぺんに話すので、混ざってよくわからなかったけれど、だいたい、そんなようなことを言っていた。
そこで、じゃあ、学童まで送っていこう、歩けるかな?と寝ているKくんを起こして、一緒に歩くことにした。
全員が、黄色い帽子と、黄色い鞄を背負っていたので、顔もちゃんと見ていなかった小さなKくんは、あっという間に集団にまぎれて、わからなくなった。
私は、田んぼの脇の狭い歩道を、子どもたちと歩きながら、さっきからのことを考えていた。
私が通り過ぎた時、Kくんを囲んでいた子どもたちは8人くらいいたと思う。
戻ってきたとき、それが半分に減っていた。
けれど、大人である私がKくんに関わろうとした途端、先を歩いていた子たちは、さーっと戻ってきた。
知らない他人が近づいてきたら、みんなで対応するよう学校で教えられているのかもしれないし、バイクのおばあちゃんが珍しかったのかもしれない。
理由はよくわからないけれど、その戻ってきた子たちは、口々に
――そこで、転んだんだよ。
――誰も押してないよ。
――Kくん、よく転ぶんだよ。
――泣いてないから、痛くないんだと思って、先に行くことにしたの。
と、言いだしたのだ。
なんだか切なくなってしまった。
『友達には優しくしなさい』とか『小さい子の面倒を見るように』とか、普段から言われているのだろうか。
だから、わざわざ、自分に非がないことを証明しなくちゃ、と私に主張を始めたのだろうか。
自発的に誰かに優しくしたいなら、してあげたらいいと思う。
それは、美しいことだと思うし、ありがたいことだ。
けれど、強制されて他人のケアを押し付けられるなんて、大人だっていやなのに、どうして、大人は子どもに平気でそう教えるのだろうか。
『私の仕事を増やすな』ということなんだろうなあ。
大人も余裕がないってことだ。
『友達や小さい子に優しくしなさい』と教えるより、『あなたが嫌だと思う人からはそっと離れていいんだよ。でも、あなたが嫌でも、そういう人も、世界には居ていいんだよ』と教える方が、自分から優しくできる機会は、確実に増えると思う。
かくあるべき、という矯正された狭い視野の中で、誰かに褒められたくて優しくするより、自由の中で選び取られたやさしさの方が尊い。
めんどくさい友達にうんざりしたら、先に行ったってかまわない。
寝転がっているのを、ほったらかしにしてたってかまわない。
そんなことで、誰も責めたりしない。
別に意地悪だとは思わない。
優しくできなかったことで、罪悪感を持つ必要もない。
だって、困っている子どもを助けるのは、大人の役割なのだから。
今日だって、私が気付かなくても、誰かしら通りかかって助けてくれたことだろう。
実際、私がバイクを止めて、子どもたちの話を聞いていた時
「事故ですか? 救急車呼びますか?」
と、聞きに来てくれた男の人もいたわけだし。
大人の思う「こうあらねばならない」の中に押し込められて、そのストレスで変に捻じ曲がるくらいなら、そのままの粗削りな子どもでいてくれた方がいいと思う。
そうやって、ちゃんと子どもを生きてほしい。
やさしくすることは、義務じゃない。
嫌なら、やさしくしなくてもいいのだ。
ただ、あなたが嫌だと思った相手も、誰かの大事な存在なのだから、傷つけさえしなければいいのだと、それだけわかっていたらいいんだと思う。
**連続投稿464日目**