「なぜ人を殺してはいけないのか」はバイクに乗ればわかる
1997年、酒鬼薔薇聖人と名乗る人物が神戸で小学生を殺め、その首を校門に晒すという猟奇的な事件があった。
捜査が進み逮捕されたのは、まだ中学生の少年で、日本中がそのことに驚愕し衝撃を受けた。
そんな中で、あるテレビ番組では、中高生対識者の討論会が行われ
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
という1人の高校生の質問に、大人が誰も答えられないというハプニングが起きた。
当時、私は32歳。
「そうだよなあ、何で殺しちゃダメなんだろ?何となくダメだって思ってきたけど、改めて考えてみると、やむにやまれぬ事情があったなら、仕方ないかって私は思うしなぁ。絶対ダメとは言えないなあ」
と高校生に肩入れしていた。
今も半分くらいは、同じ気持ちだ。
殺したくなるくらい嫌なことをされて、逃げることも許されない環境に置かれたら、相手を倒すしか自分が生きる道はない。
それを否定しようとは思わない。
ただ、一般論としての「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには、毎夜、直面して答えを見つけた気がしている。
そんなに大した答えではない。
「私が殺されたくないから」だ。
私はバイク乗りだ。
毎夜、市営プールまで片道10分強をバイクで往復している。
生身で鉄の塊の間を走るので、いつも自分が死ぬことを想像してばかりいる。
信号待ちの時、前に車がいると、後ろからきた車に追突され挟まれて、ぺちゃんこになる自分を想像する。
路面が凸凹していると、ハンドルを取られて転倒し、後ろから来た車に跳ね飛ばされ頭が割れる自分を想像する。
右折待ちで交差点の真ん中に止まっている時、すぐ横を大きなトラックが走って行くと、タイヤに巻き込まれて内臓がはみ出る自分を想像する。
「生き物って、本当に簡単に壊れて死ぬんだよなあ」
と、ゾクゾクしながら思っている。
「そんなに怖いなら乗らなきゃいいのでは?」
と言うなかれ。
そういう話がしたいのではない。
いつ死んでもおかしくない乗り物に乗りながら、なぜ私は生きてるのかを考えたいのだ。
私がまだ死んでないのは、周りのドライバーたちが、全員、誰かを殺そうと思って車を運転していないからだ。
対向車も後続車も並行して走る車も、
「殺したい。殺していいよね。誰にしようかな」
と目をぎらつかせている人ばかりなら、生身の私は最初に死んでいるだろう。
無事帰宅するたびに、
「生きててよかった。殺したい人に会わなくてよかった」
と思う。
そして、私が生かされているのだから、私も誰かをバイクで跳ね飛ばしたりしないよう、細心の注意を払うべきだと思うし、実際そうしている。
殺されたくないから、殺すことを選ばない。
そんな簡単なことなのだけれど、死を意識できない遠いところにいると、ついそれを忘れてしまい、頭でこねくり回して気の利いた答えを出そうとする。
みんな一度、バイクに乗ってみたらいい。
「殺さないルールを採用している人たちの中にいるから、自分は安心しているのだ」と実感できるはずだ。
この記事が参加している募集
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。 サポートは、お年玉みたいなものだと思ってますので、甘やかさず、年一くらいにしておいてください。精進します。