「発見」について
昨日16時ごろ、釣りに出かけて敦賀半島を走っていた時に、天頂に虹ようなものを発見した。
それまで、ボウズであった私は思った。
「これは吉兆だ。こちらに行けば、魚が釣れるに違いない」と。
この7色の光の方角を目掛けて走ると、果たして半島の西方で、無事に魚をゲットできた。
帰宅後、魚をもたらしてくれた吉兆の正体が気になり、「これなんだろう?」とSNSに投稿したところ、友人が「環天頂アークかな」と教えてくれた。
へえ!
はじめて聞く言葉である。
わかりやすい図がネットにあったので載せる。
太陽が地平線から登った2時間後、または沈む2時間前の、低い位置にある時に見えやすいらしい。
ざっくりと、太陽より上にあれば「環天頂アーク」、下にあれば「環水平アーク」と覚えた。
いずれにせよ、空が広くないと見つけにくいので、ビルに囲まれた都会では、目撃することが難しいのかもしれない。
それにしても、よくある天体現象だと言うが、「環天頂アーク」などというものを目撃したのは生まれて初めてだ。
アークの発現には条件がある。
「本当によくある現象なのか? この条件が揃うことって、珍しいんじゃないか?」
と気象素人である私は思った。
「自分が「発見」したものは、レアものであってほしい。私だけの「発見」であってほしい」
そう願ってしまう。
この気持ちは、人類に共通のものだと思うのだが、どうだろう?
未知なもの、希少なものに触れた時、それが未知で希少であるというだけで、自分まで稀有な存在になったように錯覚することがある。
私は、たとえ錯覚でも、そんなワクワクした高揚感をもたらしてくれるがゆえに、「発見」が好きなのだと思う。
けれど、コロンブスの新大陸「発見」を持ち出すまでもなく、あらゆるものは、誰かに発見される前からそこにある。
私は、敦賀にきてウミウシを「発見」したが、日本中、どこの海でもウミウシはいる。
物理法則の発見も、新種のウイルスの発見も、「すでに存在していたものに気づき、ほかと違うことを認識した上で、個別の現象として名前をつけた」というのが正確な言い方で、無を有にしたわけではない。
発見した途端に、それが生まれたわけではないのだ。
私たちは、日常生活を送りながら、未知のものに「出会う」ことはしていても、それに「気づいていない」ことが多いのだろう。
今はネットで調べれば、それが「未知」なのかどうかはすぐわかる。
なかなか「発見」し辛い時代なのかというと、そうではない。
人類が知っているものが、これだけすぐわかるところに並んでいるのだ。
ちょっと調べれば、それが「発見」なのかどうかはすぐにわかる。
逆に、とても「発見」しやすい時代に生きているのだろうと思う。
あとは、珍しさに反応するアンテナだけの問題なのだろう。
**連続投稿425日目***
【追記】
ついでに、「ハロ」と「幻日」も見えていたので載せておく。
幻日の右は、写真ではよくわからないと思うが、赤色がどちらに現れているかで見分ける。
太陽に近い方に赤が現れる。