歳をとるのは素敵なことです そうじゃないですか?
と、私が高校生の頃、ポップに歌い上げていたのは中島みゆきだった。
軽快なメロディに乗せて「そうじゃないですか?」と問われたら、「もちろん、そうですよね」と答えそうになってしまうが、ちょっと待て。
あの時の中島みゆきは、いったいいくつだったのか?
「傾斜」は中島みゆき9作目のアルバム「寒水魚」(1982年3月リリース)の中に収められた一曲だ。
当時の彼女はちょうど30歳。
「老い」を感じるには早すぎる年齢だろう。
ましてや、「素敵なことです」と言い切るほど、老いについての経験も知見もなかったはずだ。
あれはいったい、なんだったのか?
当時、片耳で聞き流していたような彼女の「傾斜」を改めて聴いてみた。
「傾斜」
作詞・作曲 中島みゆき
傾斜10度の坂道を
腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく
紫色の風呂敷包みは
また少しまた少し 重くなったようだ
彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横すべり横すべり
のぼれども のぼれども
どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ
冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
愛から冬へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり
としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
息が苦しいのは きっと彼女が
出がけにしめた帯がきつすぎたのだろう
息子が彼女に邪険にするのは
きっと彼女が女房に似ているからだろう
あの子にどれだけやさしくしたかと
思い出すほど あの子は他人でもない
みせつけがましいと言われて
抜きすぎた白髪の残りはあと少し
誰かの娘が坂を降り 誰かの女が坂を降り
愛から夜へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり
としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
愛から冬へと人づたい
のぼりの傾斜は けわしくなるばかり
としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
なんと。
素敵とは真反対の、哀しみしかない老いの歌だった。
老いなんて遠い未来のことで「もしかしたら自分にはやってこないかもしれない」くらいに感じていた高校生の私は、サビの明るいメロディにすっかり騙されていたのである。
そっか、歳をとるのって、そんなに悪くもないことなんだな、と。
おかげさまでその洗脳は役に立っており、とりあえず今、老いてゆく自分を悲観してはいない。
できないことは昔から多かったので、今さら何が失われたとて、どうってことないと開き直っている。
周りも老いて、自分と同じくらいできないことが増えていくのを見ると、ニヤリとしてしまう。
その程度には意地悪だ。
生も死もピンポイントで見れば、良くも悪くもない。
「そこから」と「そこまで」に差があるだけだ。
生まれて歩き出す道の傾斜が10度なのか、30度なのか、はたまた、なんの苦労も感慨もない真っ平らな道なのか、それは動き出して初めてわかること。
背負った風呂敷の中身がどれほど貴重で重いのか、誰にも持ってもらえないほど無意味で役に立たないものなのか、それも、動いた軌跡があって初めてわかること。
ゼロからスタートして、ゼロに還る。
その間に通る道がどんなものでも、そこで何を拾い自分の風呂敷に包むのかは、自分が決めることだ。
悲しい記憶は、それはそれ。
生きているのが素敵なことなら、歳をとるのも素敵なことなんだろう。
忘れたいなら忘れりゃいいが、時代がまわるものならば、その哀しみもいつか誰かの糧になる。
……はず。
というわけで、よく考えてもやっぱり「そうじゃないですか?」の私の答えは「そうですね!」なのだった。
今、72歳のみゆきさまは、なんとお答えになるのだろうな。
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