「水たまりで息をする」感想
先日来、高瀬隼子さんにハマり中である。
今回は「水たまりで息をする」を読んだ。
ちなみに、この作品が芥川賞候補になった時の、選評がこちらである。
選評を読み終わった瞬間「やった!」と小さくガッツポーズしてしまった。
誰も私のようには読んでいない、と思ったからだ。
もちろん、感想に正も誤もないのは、わかっている。
けれど、この作品で表現したかったことは、「型にはめないと定義が難しいものから、型が消えていく時の心許なさ」ではないかと思うのだ。
ざっとあらすじを紹介する。
たぶん、読者は「なぜ、風呂に入らない夫を許容するのか?」というところで、まず引っかかると思う。
夫が水道水をいやがるようになったのには、きっかけらしき事件があるのだが、それがどう作用して、風呂を拒絶するようになったのか、その理由は曖昧で因果関係の説明がない。
主人公も、読者もモヤモヤする。
「理由を問い、原因を取り除き、解決しようと努力する」
「理由は分からなくても、同じ家に住むものとして、我慢できないので、無理矢理にでも風呂に入れる」
一般的対応としては、こんなところではないかと思うのだが、彼女はそのどちらも選択しない。
それどころか、風呂に入らない夫を「臭い」と思っていることを、夫に知られることを恐れるかのように、何でもないふりをする。
なぜなら、夫を傷つけたくないから。
無理に理由を問い詰めることをしない。
なぜなら、言いたくないことを言わせるのは、愛ではないと思うから。
夫が「スメルハラスメント」で職場を辞めるよう勧告され、いよいよ退職しても、それでも風呂に入るよう言わない。
なぜなら、夫を愛しているのなら、不可解な行動をも丸ごと愛すべきだと思っているから。
彼女は「おままごとのような暮らし」と言われても、それを「夫婦の愛の形」だと信じていた。
「互いを尊重しているのだ」だと信じてきた。
手の空いている方が家事をして、助け合う。
負担になる食事の支度は、お互い好きなように別々にとることで回避する。
そうやって成り立っていた、「夫婦の暮らし」=「自分たちの愛の形」が、風呂に入らない夫によってじわじわと壊れていくのが、我慢できないのだ。
「愛だと信じてきたもの」が壊れるくらいなら、匂いも我慢するし、職場を追われた夫を責めないし、夫が綺麗な水を求めて川のそばに住むというなら、仕事を辞めてついていく。
そして常に自分の心を、距離を置いて観察しているのだ。
「これでいいんだよね?」
「これが愛だよね?」
と問いかけながら。
愛なんて、誰にだってよくわからないものだ。
だから、わかるように形にして見せようとする。
二人で住む家の整え方、休日の過ごし方、互いへの献身や、いたわりや、ねぎらいや、甘やかしや、主体性の尊重や。
愛はこれらの集合体として存在する。
とりあえず衣津実は、そういうものだろうと思ってきた。
なのに、それが、ガラガラと崩れていく。
風呂に入らない臭い夫を、庇いたいのにどう庇えばいいのかわからない。
これでいいのか、これが愛なのか、よくわからないので、混乱する。
そして、これ以上混乱させないでくれと、外界を遮断し、義母と連絡を取らなくなるのである。
これが、「型にはめないと定義が難しいものから、型が消えていく時の心許なさ」だと思うのだ。
愛の定義を世間に任せたばかりに、それが世の中の型と一致している時には安定していられても、崩れると途端に不安になってしまう。
そこに自分がいないから。
世界を自分で定義していないから。
衝撃のはずのラストには、安堵すら感じる。
衣津実は愛を失った。
しかし、得体の知れない不安からは解放されたはずだ。
もう何かに合わせに行かなくてもいいのだ。
……こんなふうに読むと、「水たまりで息をする」は、理解できるのではないかと思うのだけれど、どうだろう?
もちろん、「私の解釈」にすぎないのだけれど。
**連続投稿386日目**