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「さよなら野口健」読書感想文
栗城史多を描いた「デスゾーン」を読み終えてから気になっていた、登山家・野口健について描かれたこの本を読んだ。
もともと、山には何の興味もない。
ただ、山に登りたい人には興味がある。
私にはない、その欲求の源泉を知りたいというような好奇心だ。
この本を書いた小林元喜氏は、野口健事務所に勤めマネージャーとして大活躍しながらも、野口が嫌になったり、それでも惹かれたりと、三度も事務所を辞めた人である。
それだけ野口健が魅力的かつ厄介な人物だったのか、彼に対する同族嫌悪や嫉妬のようなものがあったのか、この本だけでは、その辺がよくわからなかったが、私がテレビで見た明るくひょうきんそうな野口健だけが、彼のすべてでないことはよくわかった。
人はみんな、何かしらの劣等感を抱えて生きているものだし、最初から最後まで、幸せだけでできた人生というのはないのだろう。
さて本を読んで長年理解できなかったことがいくつかわかった気がする。
有名登山家には2種類いるらしい。
①そこに山があるから登る型
②山で人生を逆転させたい型
である。
野口健、栗城史多に代表されるコンプレックスをバネに登る人たちは②、彼らを「3.5流」と評した服部文祥さんは①に分類できそうだ。
①型の人たちは、「未知、未踏、誰もやったことがない」が大好きで、そこへの憧憬だけをモチベーションに進んでいける。
生粋の冒険家なのだろう。(少なくとも、そうありたいと考える人たちなのだろう)
②型の人たちは、「未知、未踏、だれもやったことがない」を道具に、自分を肯定をしたいのだと思う。
それを乗り越え他人の賞賛を得て、初めて自分ってけっこうやるじゃんと思える人たち。
だから、彼らはチャレンジの証人になってくれる「観客」を常に必要とする。
私が圧倒的にシンパシーを抱くのは、②タイプの人たちだ。
冒険には、憧れよりも怖さが勝る。
けれど、びびって1歩踏み出せない自分は嫌い。
だから、無理矢理にでも自分を追い込む。
頑張る自分のことは、見ていて欲しいし褒めても欲しい。
そうして、栗城は亡くなり、野口は成功した。
「さよなら野口健」には、その明暗を分けた理由らしきものが散見される。
栗城が求めた「観客」は、不特定多数のネット民であり、野口が求めた「観客」は、過去に自分を否定した特定の人たちだった。
あらゆる人に好かれることは不可能でも、特定の人間に「見直した」と思ってもらうことは可能だ。
むしろ、「こいつを見返すまでは死ねない」という執着が、同じエベレストで野口を生かしたのかもしれない。
栗城の欲求は叶えられることなく、膨れ上がり飲み込まれた。
野口の欲求は満たされ、次のステージへと向かった。
つまり、満たしてもらう側から、満たす側へ。
エベレスト清掃登山、富士山清掃登山など、他人に貢献し、役に立つことで、自分も幸せになる道を選択したのだろう。
こう書くと、野口がとても穏やかな人物であるかのように見えるかもしれないが、野口健事務所のスタッフは、定着しないことで有名なのだそうだ。
筆者の小林曰く、野口の仕事に対する要求が厳しい、というより、感情の振れ幅が大きく、そこに付き合える人がいないらしい。
長く務めている人は、野口に振り回されているうちに、共依存のような関係になってしまい、精神的にボロボロになってしまうのだろう。
小林が、極力、平静を保って書こうとしているのは伝わるのだが、どう見ても愛と憎の間で揺れているとしか思えない文章が多く、野口健の厄介さを見た気がした。
引力の強い人間というのはいる。
いやだ、嫌いだと思いながら、一方では強く惹かれて、その魅力に抗えない。
その厄介さが随所に現れており、描こうとしなくても野口健が見えてしまう、市井の人間が知ることのできない野口を知ることができるという点で、この本は良い本だった。
ただ、好みは分かれると思う。
**連続投稿517日目**
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