なぜ、父は「当然の権利だ」と思えなかったんだろう?

父は、わたしが物心ついたくらいのタイミングで片耳の聴力を失い、もう片耳もほとんど聞こえなくなった。
聞こえる方の耳に補聴器を使うこともあったけれど、昔の補聴器はノイズも全て拾ってしまっていたため、頭が痛くなるからと普段は使っていなかった。

好奇心旺盛で何にでも手を出してみたい人で、そういう性格はそのまま私に受け継がれていると思う。
飽きっぽいところも同じだ。
休みの日に遊んでくれるのは主に父だったので、バドミントンや野球のキャッチボール、海水浴などは父にその面白さを教えてもらったと思っている。
ある年齢まで、私は確実に「パパっ子」だった。

耳の聞こえない父にできる仕事は限られており、父も一人でコツコツこなす「職人系の仕事」を好んでいたので、塗装の仕事についていた。
父は色覚異常も持っていたので、色合わせにものすごく苦労していたのではないかと思うのだが、勘が良いのかなんなのか、そこに関してクレームを受けたことは殆ど無かったらしい。

一般的なサラリーマン家庭に比べると、確実に裕福ではなかった。
正確に言うと、貧乏だった。
が、子どもなんて自分がいる世界が「普通」なので、父が聞こえない人であることも、家が貧乏であることも、そういうものだと思っていた。

ところが、私が大学に進学する時になって、どうやら相当困窮しているらしいことに初めて気づいた。
私は大学の学生寮に入ることも、奨学金をもらうことも決まっていたが、それでも賄えないくらい我が家は困っていた。
今考えればそれも当然で、なぜなら、3つ歳の離れた弟の高校入学も重なっていたし、彼はスポーツ推薦とはいえ、何かと物入りな野球部に所属していたため、負担が大きかったのだろう。

そこで母は、初めて父に相談した。
「障害者手帳を取得してもらえないだろうか」
と。
父に障害があれば、私の学費は免除される。
当時の授業料は、半期で12万6千円。
我が家の世帯収入は、あまりに低かったので、それだけで半額免除されていたが、父が障害者手帳を持っていれば、全額免除になるという。
たぶん、私なら当然の権利として行使していただろう。

ところが、父は母に向かって
「自分はこうして立派に家族を養ってきた。夏の暑い日も冬の寒い日も、外で働きながら家族のために頑張ってきた。なのにお前は俺を障害者扱いするのか?」
と泣いたのだそうだ。
母はそれ以上、何も言えなかったと言った。

卒業後、何年もしてから聞いたので「いまさら」な出来事だったが、私がもしその場にいたとしても、父を説得できたか自信はない。
「家族を養ってきた」という父のプライドを、娘とはいえ他人であるわたしが、ぶち壊していいのかと考えて、やはり何も言えなかっただろう。

ところが、なのである。
父には弟が一人いる。
この方がびっくりするくらい商才と愛嬌と豪胆さを併せ持つ人で、事業を興して一代で豪邸を建ててしまった地元の名物社長である。
その弟(わたしにとっては叔父)が、咽頭癌になり、声帯を失ってしまった。
退院してきた翌日、叔父は役所に出向いて障害者手帳をもらってきたのである。
リハビリして、食道で音を出すよう訓練してきた叔父は、聞き取りにくい声で父に言った。
「これ持ってるといいぞ。電車もバスも半額で乗れるし、障害年金ももらえるし、取らないと勿体無いぞ」

それを聞いた父は、自分も60を過ぎてからようやく手帳をもらいにいったというのだ。

あれは、いったいどういう心境の変化だったのだろう。
父はもういないので聞けないが、「当然の権利を行使できなかった」理由はなんだったんだろう?

もしかすると、「父のプライドを踏み躙るようで何も言えない」と思った私も、実は父の権利を行使させない側に立つ人間だったのではないか。
不憫だ、かわいそうだ、と思ってしまった時点で、確実に自分と対等だとは思っていなかったって事だから。

遠慮なんかしてないで、さっさと聞いてみればよかった。
今となっては、それだけが心残りだ。

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はんだあゆみ
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