片手で自絞死できるか/桂秀策
読了日 2021/02/17
自殺にも種類はあるけれど、もっともポピュラー(?)な死に方は首吊りだろう。
ところでなぜ首を吊ると死ねるか、というと、呼吸が出来なくなるからと考える人は少なくない。
実際にそうした原因で死ぬことはあっても、実は動脈閉鎖による脳虚血からの脳死によって死亡することもあるのだ。
現に本書には、首吊りをしたがなんと、気管に切り傷があって気道が露出し、呼吸自体は可能だった農夫のエピソードがある。
この農夫、何を考えたか知らないが妻を鎌で切り殺してから自分も死のうと首を切ったのだが死ねず、やむなく首を吊って死んだ。
首を切るひと手間があったせいで、気管が露出し、下手すると呼吸をしていた形跡まであったのだ。
死にたいがための傷でもしかすると生き延びていたかもしれない農夫だが、脳の機能停止という形で願いどおり死ねたというわけである。
死ぬための気合いが生半可ではない。
なぜ生きるほうに舵をきらなかった、はなはだ疑問に感じる人は幸せだろう。
とにかく希死念慮に追われるとなぜかヤケになって死んでやる、と奮起する気持ちが沸いてくるのだ。
あれはなんなんだろうかと、まだ死ねないなと思う身の上になると冷静に考察できる。
なんだったんだ、あれは。
さらにもう一つ、首吊りの死因は気道閉鎖ではなく脳死による呼吸運動の停止による窒息エピソードがある。
自殺といえば自殺なのだが、なかなか稀に見る不運な死に方をした少女の話だった。
自殺を考えている人には、ひとまず首吊りはやめておいたほうがイイとオススメしたくなる。
さてタイトルの疑問は第2章というはやい段階で回収される。
片手で自絞死できるか。
自絞死とは、自分を絞めた死ということだから、首吊りなどではなく自分で自分の首を絞めなければならない。
ただし、本書に出てくる自絞死の疑いをもたれる女性は老齢で、しかも戦時中に片腕を失っている。
両手があれば、首にひもを巻きつけて一気に引っ張れば自絞死も夢ではないような想像をするが、実際は片腕の老婆だった。
第一発見者の養子が殺害の疑いをかけられるが、果たしてどうなのか。
著者は、ひもを使って試すことにした。
すると遺体に残されていた妙な特徴が、次々と自絞死を裏づける証拠となっていく。
自分の体で、死因が自殺によるものと判明させたのだ。
恐るべし執念である。
今ならば大問題にならないか心配にもなる。
著者は前後の混乱を生き抜かれた方でもあるので、高度経済成長における車社会の発展も目撃してきた。
車社会が到来するということは、車による死亡事故も増加し、法医学者は車両事故について見識を深めていった時代でもある。
裁判に呼び出されて鑑定結果を述べるにあたり、目の当たりにした証拠をあろうことか警察が見落としていたばかりに信用が得られなくなるなんてこともあった。
無能とは言わんが、なあなあの仕事だとこういうことになるのだろう。
法医学者は死んだ人間の無念さを読み取る仕事でもあると同時に、生きている人間の人権を守る仕事でもあるのだ。
例えば交通事故における、2台の車両による轢過は代表的な問題だ。
2台の車にひかれた人間は、1台目ですでに息絶えたのか。それとも1台目で転んだところ2台目の轢過で死んだのか。
どちらの運転手の罪状が過失致死で、どちらの運転手が過失傷害なのかで、残された人間の今後が大きく左右される。
この手の裁判のエピソードを読んでいると、検察とは何がなんでも容疑者を犯人扱いしたがって真犯人を探そうというつもりはないのだなと思えてくる。
もちろん検察の仕事内容なので、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。
また別な著者の書籍で、むかしの法医学者は解剖セットを持ち歩いて現場で検視と解剖を行ったという記述を読んだのだが、著者はまさしくそのような時代を生きたお人だった。
大変ではあっただろうが、それによるメリットももちろんある。
事件現場を目の当たりにすることで、この転落死による致命傷はこの場所ではありえない、と判断がくだせるのだ。
著者の場合、検視に来てくださいと頼まれて迎えを待っていたが、やっぱり来なくていいですと断られたら、自称ひねくれ者の性分らしく何がなんでも行ってやると息巻いて現場に向かうくらいなので、時代も性に合っていたのだろう。
古い本なので法律など様々に改定されている部分はある。
著者は裁判における誤審を防ぐために、鑑定人同士の議論の必要性を訴えている。
検察側と弁護側は、いわば敵同士だ。
そのためそれぞれが連れてきた鑑定人も敵とみなされがちだが、お互いがその筋の専門家ならばある程度の結果は同じになるはずだ。
科学とは再現性が重視される、という。
ならばどちらの意見が再現度が高いか、鑑定人同士は分かっているはずなのである。
それでなくとも完璧な鑑定などあるはずもないので、お互いの意見を批判し、再現度がより高い意見を尊重してより精度の高い鑑定書を作成すべきではないかと訴えている。
ある人が山に登った。
その道すじを探すのが、法医学者のような鑑定人だ。
検察側の鑑定人はこの道だ、と訴える。
弁護側の鑑定人はこの道だ、と訴える。
どちらが正しいかは、最初に登ったある人しか分からない。
だがある人はすでに故人だ。話は聞けない。
となると、故人の足跡や、故人の靴の裏についている砂の成分、はたまた故人が手に負っていたすり傷を形成した何か、故人の鼻腔にあった花粉の植生などから、ルートを狭めていく。
その際、どちらかの意見一方を採用するよりは、お互いの意見を批判して、より通った可能性が高い新たなルートについて模索するという方法もアリなのではないか。
著者はそう申しているのだが、本書が発刊されてから20年以上経つ。
改定されているのか、不勉強な私は分からない。
裁判員制度でさえ批判されていたのだから、きっと採用されていないのだろう。
被害者に寄り添うことも大切だが、加害者の言葉に耳を傾けることもまた重要性なのではないか。