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〈引越し日記2〉 初めまして、家

遠くに見える山、近くに迫る木々、田植えを前にたっぷりと水を湛えた田んぼ、畦道を歩く人、並走する車、通り過ぎた無人の駅、耳がつんとなるトンネルの暗闇、を過ぎたら、目に勢いよく差し込む光。どこも似ているようで同じではない、そんな初夏の田舎の風景を車窓にいくつも通り過ぎながら、私の胸は高鳴っていた。やっと会えるという楽しみな気持ちに、もし気に入らなかったらどうしようという不安が覆いかぶさるのを、「きっと大丈夫だからさ」と、私が私の手で私の内側をさする。
新八代駅から、玉名駅を目指すJR鹿児島本線の車内でのことだ。

私は引越し先の新居に、初めて向かっていた。これから自分が住む家を、内覧もせずにネットの情報だけで決めるなんて初めてのことだ。本当は、なんでも自分の目で見て触れて吟味して納得して決めたいそれが私、なのだけれど、今回は鳥取県から熊本県と遠方への引越しで、家探しに当てられる時間も短かったのでそうせざるを得なかった。

毎日、仕事の合間や帰宅後に、鳥取にいながら熊本の不動産情報を追いかける日々。引越し先の熊本県玉名市には土地勘も全くないので、どこか旅行先の情報を調べているような感覚で、引越しに対する現実味はあまり湧かなかった。

7歳になる猫と暮らす私の譲れない条件は、まずもって「ペット飼育可」であること。次に”圧迫感”を感じないこと。これは、適度な広さだけでなく、日当たりの良さや窓の外の景色(隣の建物が迫る様に近い、などは苦手)なんかも関係してくる。これは自分のためでもあるし、家族である猫にすこやかに過ごしてもらうためでもある。築年数にはそこまで厳しく拘らないけれど、古くても、トイレ・お風呂は清潔感を感じられること。キッチンは自炊をするのにストレスを感じない広さは欲しい。2口コンロは絶対だ。ベランダも広いほうがいい。それでいて家賃はなるだけ安く抑えたいなんて、不動産屋的には難しいお客だっただろう。

実際、なかなか希望に合う物件は見つからなかったのだけれど、最終的にはペット飼育可ではない物件を交渉し、家賃・初期費用を多く払ってペット飼育を許可してもらうという荒業でなんとか家探し終了、となった。

そんな経緯で入居を決めた家に、引越し初日に初めて向かったのである。駅から不動産屋に直行し、私の気持ちとは釣り合いが取れないほど簡単な説明を受けた後、2本の鍵を受け取る。家までは、不動産屋のスタッフさんが車で送り届けてくれて、「ここがゴミ捨て場で、部屋はあの突当たりのドアなんで。じゃ。」と早々に去っていかれた。

一人残されて、言われた通りに突当たりのドアの前に立つ。確かにここは私が契約した、今日から”私の家”なのだ。今さっき受け取ったばかりの鍵を、鍵穴に刺し、くりんと回す。確かに開く。やっぱりここは私の家になったのだ。心許ない軽さのドアを引いて、中に入る。玄関の飾り棚、ひろめの窓、初めての和室、家の古さに対して綺麗な、まだ新しいユニットバスとトイレ。「あ、写真で見たことある」(当たり前だ)という風景がそこにあるのを一つずつ確認する。

写真はよく見えるように撮ってあるとはわかっていたが、やっぱり写真よりは全体的に古い感じがするし、壁も所々痛んでいたり、写真では気にしていなかった気に入らないデザインのふすまや壁紙も気になる。でもそういう一つ一つを、自分が気にいるように変えたり、うまく目隠しをしたりといった工夫を加えるのは私の得意なことなので、腕がなるってもんだ。そのうち、よーく見れば「なかなかいいではないか」というところも見えてきて、時間をかけながら、数ヶ月もすれば”住めば都”になるイメージが湧いてきた。

まだ周りの環境のことも何も知らない今は、小さなことも不安の種になる。でも、最初から完璧なんてことはないし、「なかなかいい家だ」と思いながらも不安な気持ちになるのは、まだここに自分のものが何一つないからだ、ということに気づいて少し安心した。今回は、猫を宮崎の実家に預けたついでに身一つで熊本に向い諸々の手続きを済ませる第一弾と、引越し荷物を業者に運んでもらいフェリーで車と自分を運ぶ第二弾、という二部構成での引越しだ。第一弾の今はまだ、家は空っぽで、音を吸収するものがない空間はかなり寂しく響く。きっと第二弾でものが運び込まれたら、少しずつここは私の”住めば都”に近づいていくはずだ。

ひと通り部屋の中を見て回って、もう少し見たい気もしたけれど特に今できることは何もない上にカーテンのない状態では外から丸見えなので、早々に退出して、転入の手続きをしに役所に向かう。

隣の部屋の前を通り過ぎる時、一本だけ、ビニールではない傘が真っ直ぐに立てかけられていて、なんとなく、よかったと思う。





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