「個性を出そう」VS「自我を出すな」
模倣が創造の第一歩である、という話はここでは述べない。
消費者・視聴者目線の話をしていく。
YouTubeはかつて若者のメディアだったと思うけれど、最近の若者は(知らんけど)TikTokとかを見ていて、YouTubeの視聴者は高齢化しつつある。
よく知られているように、人は歳を取るとだんだん新しい娯楽を摂取できなくなる。
脂っこいものを食べられなくなるのに近いだろうか。
好き嫌いの問題ではなく、消化機能が落ちているのだ。
誰も娯楽や食事でわざわざ疲れたくはない。
であるから、慣れ親しんだものに流れる。
YouTubeで同じようなコンテンツがバーッと出るのは、需要があるからだ。
新しい発見・刺激・知見を求めていない。
見たことがあるようなサムネを探している。
そして、同じような動画を、安心して眺めている。
まさかすべての視聴者がそうだとは言わないけれど、そういう層がかなり厚いことは疑いないと思う。
小説投稿サイトにはあまり深入りせず、カクヨムにぽんぽんと過去作を置いているだけなのだけれど、あの世界も似たような作品がバーッと並ぶ傾向にあると聞く。
そういうのを、以前の僕は、独創性の敗北だと思っていた。
いや、敗北ではあるのかもしれない。
自分自身が作りたいものを作ることより、見られること・読まれることを選んだのだから、敗北ではある。
もとい、独創性の云々というより、受け手が同じようなものばかり求めるのを「ダッサ」と思っていた。
歳のせいにすんな、と。
前進止めたら人間終わりやろがい。
こちとら枯れ木に水撒く趣味はねぇんだと息巻いていた。
ところが、いつの間にか自分が結構老いていた。
(金銭的なこともあるけど)漫画も小説も新刊を買わず蔵書を再読し、昔遊んだゲームのリマスター版をやり、YouTubeでは量産型のゆっくり実況を見ている。
娯楽において、新しい刺激を、探していない。
そういう存在に自分がなってみて、無料コンテンツの金太郎飴状態に対し、「まぁそうなるわな……」という感覚になってきた。
さらに、ここからが恐ろしいのだが、「変に個性を出そうとしないでほしい」とさえ思っている。
端的に言えば、霊夢と魔理沙の掛け合いに「うp主」が紛れ込んできたら再生を止める。
見たいのは「いつもの」であって、クリエイターの自我はノイズでしかない。
そういう感覚が、視聴者として確かにある。
そんな、栄養のねぇ笹しか食えねぇパンダみてぇなよわよわ消費者がきっと大勢いる現実を考えると、創作における「模倣」の目的が変わってくる。
クリエイターの「学び」のためではない。
消費者の「介護」のためである。
個性(消費者目線では自我)は、極めてこっそりと滑り込ませるしかない。
この現象は、YouTubeの仕組みの所為でもある。
奴らは視聴履歴に基づいて「じゃあこういうのも好きですね?」と提案してくる。
すると冒険心を失った我々のようなクソザコナメクジは「まぁ、そうッスね……」と流されてしまうのだ。
この恐るべき機能は、人類の好奇心や学習意欲を低下させるために、悪のAIが密かに張った罠ではないだろうか。
小劇場は関係者や身内でどうにか客席を埋めているとしばしば小馬鹿にされるが、一億総クリエイター時代がいよいよとなったら、小劇場なんてかわいいものだ。
供給が多過ぎる。
圧倒的に消費者が足りない。
だから、数だけは多い、心が死んだ層にすり寄って、ますます似たようなものばかりが生み出されていく。
個性を発揮する(恐れながら自我を出させていただく)チャンスは、たまたまバズった者にしか与えられない。
もう終わりだよこの世界。
と、だいぶ盛って書きました(・∀・)