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当たり前の反対はありがとう

この言葉は、自分が1番好きな言葉だ。
今日6月11日は自分にとって、いろんな意味がある日だ。

まず、両親の27回目の結婚記念日だ。
ペアワイングラスとブリザードフラワーを贈った。とても喜んでくれた姿を見て、とても嬉しかった。

24年間、自分が何不自由なく元気でいること。
小学校から高校までの10年間野球をさせてくれたこと。
公立大学に合格をもらっていたにも関わらず、
ワガママ言って私立大学に行かせてもらったこと。
実家からも会社に通えるのに、わざわざ一人暮らしをさせてくれたこと。


こんなにもワガママを言ったのに、一歳上の兄と自分のために頑張ってくれたことに心から感謝をしたい。

もう一つは、元カノの誕生日である。
大学時代の部活動で知り合い、彼女が先に辞めてしまっても、ほぼ毎日連絡を取るほど仲が良かった。
彼女といるときの空気感がとても好きで、彼女との時間がとても楽しい。普段は大人しい子だが、ちょっと天然でおもしろいところや、やや人とズレてて独特な感性も持っているところ、純粋で素直なところ、ふと見せる仕草が可愛いところなど、
すごく魅力的な的な女性だった。
自分から告白をして、『好きじゃないけどいい?』と言われ、『好きにさせてみせる』と伝え
付き合うことになった。
しかし、自分が上手くできず、別れてしまった。

別れたすぐは落ち込んでたが、時とともに傷は少しずつ癒えていき、たとえ別れたからと言って、1人の友人の誕生日を素直に祝えないのは、人として
カッコ悪いと思えるようになった。
『誕生日おめでとう!』のメッセージを送った。
今も1人の大切な友人として仲良くなった。

こんな疑問がよぎった。
人はいつの日か、仕事上のお客さんなどには気を遣って喜ばせようとするが、両親など身近で本当に大切な人に対して疎かになり、喜ばせたり、感謝することを忘れていないだろうか。そして、それが『当たり前の存在』になっていないだろうか。

本当に身近にいる人に対してこそ、感謝を伝えたりするべきだと実感した。
勿論、仕事上のお客さんなどに対しても、喜ばせたりすることは大事ですが、そればかりに時間を取られすぎている傾向があるような気がする。

今までの自分があるのは間違いなく、普段身近にいる人だと思う。
そのような人たちを大切にできないのに、仕事でお客さんを喜ばせることはできないと思う。

ここまで自分を育ててくれた両親
小学校・中学校・高校でともに野球を頑張った
最高の仲間
互いに高め合い、時にはふざけ合い、時には励まし合った大学時代の最高の仲間
『めんどくさい奴だ』と言いながらも、温かく接してくれる最高の同僚

自分と出会った全ての人に感謝。
何事も当たり前と思わず、むしろ当たり前だと思うことに感謝を伝えることを忘れずに生きていく。



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