「毒親とは」自分の生い立ちから考えてみた
毒親とは
子どもの人生を支配し、
子どもに害悪を及ぼす親
スーザン・フォワード
私の母
私の母は、とてもアクティブな人で、今77歳。お陰様で元気に趣味やボランティアに多忙な生活を送っています。
あまり口うるさくなく、他人にも干渉せず、割と自由にさせてくれるので、孫たちは母のことが大好きです。
こんなに孫たちが大好きなおばあちゃんになるなんて、私が子どもの頃には微塵も想像がつきませんでした。
私が子どもの頃の母は鬼でしたから。
物心ついてからの記憶を隅から隅まで目を凝らして探し回っても、耳を澄ましても何もないのです。
褒められたり、
抱きしめられたり、
手を繋いでもらったり、
膝に腰掛けさせてもらったり、
頭を撫でてもらったり、
かばってもらったり、
励ましてもらったり、
なぐさめてもらったり、
勇気づけてもらったり、
肯定してもらったり、
そういうことが全くないんです。
もちろん、全くゼロで何もないわけじゃないです。
ご飯はプロ級に美味しいです。
朝から手作りパン、おやつも手作りケーキ、何でも美味しいです。
裁縫や編み物も得意で、子どもの頃は服を手作りしてくれてました。
絵も上手いし、字もキレイ。
60歳から始めたPCは、今ではWord、Exsel、Powerpointを使いこなし、テキパキ仕事をこなします。
正直脱帽です。
今でこそ心からそう思えますが、
子どもの頃はそんなこと思いもしません。
それどころか、そんな母の姿は私の中では普通というか、通常、日常、いつも通り。
そこに何も特別な感情はありません。
とにかく、母に怒られないようにする。
そのためにどう取り繕うか。そればかり考えていました。
何もできない私
子どもの頃の記憶にある母との思い出で楽しかったことは何もないんです。
物心ついた時からずっと怒られてばかりです。
日々は、怒られる日か怒られなかった日かのどっちかだけで、怒られる日がほとんどを占めてました。
母に怒られる一番の原因は、弟とのきょうだいげんかでした。
2歳違いの弟がいるのですが、物心ついた時から弟との仲はとっても悪かったです。ほぼ毎日けんかしていました。
理由は2つ明確にあります。
🟢1つめは、どんなときも弟が明らかに悪い時も「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われること。
🟢2つめは、場面によって弟は良いのに私には「女の子なんだから、我慢しなさい」と言われること。
子ども心に
「何で?なんで?なんでー」
意味不明だわ!理解不能よ!
そうすると、弟は自分は大丈夫なんだと思い、平気で私の邪魔をしたりちょっかいを出したりしてきます。
でも、何故か怒られるのは私。
どんどん弟への憎悪が増していきました。
なので、喧嘩はいつも本気でした。
弟自体が大嫌いではなく、母や周りがかばい散らかす弟が大嫌いでした。
かばい散らかされている弟は消えて欲しいって思っていました。
弟が中学生になるまでは、そんな毎日でした。
それに加えて、毎回怒られたのが教えてもらう時です。
勉強や習い事で分からないことを聞くと
「そんなことも分からないの」
と言われ、
母の説明をなかなか理解できないと
「どうしようもない」
と呆れられ、
それでも理解できないでいると、
「何でこんな簡単なことが分かんないの!」
と怒り出して取り尽くしまがない状態に....。
「だって分からないんだから、しょうがないじゃん」
と言うと
「もう知らない!」
と教えるのを止めて家事に戻っていきます。
挙げ句に私は喘息で、しょっちゅう発作を起こしては母の睡眠を妨げていましたから、喘息が出ても怒られていました。
「ちゃんと言うこと聞かないから喘息出るでしょ!」
「いい加減にしなさい!」
これは日常茶飯事なのですが、たまに私が不注意から失敗などすると、目も当てられないくらい怒り出して本物の鬼に思えたこともありました。
一番怖かったのは
小学3年の時、自転車のブレーキが壊れてて、坂道でコントロールが効かなくなって近所の民家の玄関に突っ込んで玄関先の植木鉢を壊し、私が倒れ込んで、その家の人が介抱してくれているところに、鬼がやってきました。
不動明王のような形相で歩いてやって来た母は、その家の人に丁寧にお礼を言うと私を引きづるようにして連れて帰ります。
そして玄関を開けるやいなや、往復ビンタが飛んできました。
「一体何やってるの!」
「いい加減にしなさい!」
今度は左太ももをバシバシ叩かれながら、
「恥ずかしいことしないで!」
「情けないわ!」
と罵倒し、気が済んだのか家事に戻りました。
自分の部屋で痛くて(もう何で痛いのかは分からない)泣いていると、母から事情聞いた父が部屋に来て怪我の様子を見てくれ、
「大変だ、これは骨折れてる。病院行こう。」
とすぐ整形外科に連れて行ってくれました。
結局、左手首骨折で全治3週間。
母がそれを聞いて、
「何やってるの!」
「どうするのよ!」
「いい加減にしなさい!」
叩かれはしませんでしたが、怒りは収まらないようでした。
何故なら、1週間後に習っていた日本舞踊の発表会。
もちろん出られません。
衣装も作った後です。
もう、母に合わせる顔がない、私は母をとてつもなくがっかりさせてしまったんだと強烈に自覚しました。
右利きの私に父が「左手首で良かったな」と笑って言ってくれましたが、全く笑えない私でした。
母が叩かなくなった
こんな鬼の母との暮らしは、子どもの頃は本当に大変でした。
忘れもしない中学2年の冬。
転機がきました。
小学6年の弟と喧嘩になり、怒った母が私の腕を掴んで私を自分の方に向かせようとした時、私が簡単に母の手を返して、逆に母の腕を掴み返しました。
「何するのよ!」
「離しなさいよ!」
と母は血相を変えて怒りましたが、私は母の腕を掴んで離さず、母が振りほどこうとしてもビクともせずいられました。
何だか嬉しくなって笑いながら
「やだぁね」
と言い、母の腕を掴んだまま膠着状態になっていました。
母が
「もうわかったから離しなさい」
とやけに静かに言うので、にわかに信じられなかったけど、ビンタを喰らわないよう警戒しながら手を離しました。
そうしたら、そのまま台所へ行ってくれたのです。
やれやれ、大丈夫だった、と無事にやり過ごせたことに安堵していました。
あの私が腕を翻した時の母の驚きの顔は忘れられない出来事でした。
その日から母に叩かれなくなりました。
母の気持ちを知った日
母が私のことをどう思っているかなんて深く考えたことがありませんでした。
だって、考えなくても答えは出てるから。
母の私への評価は『どうしようもない子』です。
母の期待には1ミリも応えられない私がいつも私の中にいて『何で期待に応えないといけないのよ!』と開き直っていました。
小学2年の時に母に同級生にいじめられたことを相談したら
「あんたの性格が悪いからでしょ」
と言われ、『もう何も相談しない』と決めました。
私のことそう思っているんだと、私の性格も期待通りどんどん悪くなっていきました。
でも、大人になって、やっぱり結婚することは報告しないといけないと思い、彼(現夫)と一緒に母に報告しました。
大人になって、子どもの頃と違い母と私はお互いの距離を程よく保てるようになっていました。
母と話が出来る距離になっていました。
近過ぎず遠過ぎず。
近過ぎると干渉し、強要します。
遠過ぎると疎遠になり、放置します。
私は、母の育て方はとてもじゃないけど褒められはしないものだと思います。
確かに家事や仕事、趣味までしっかりこなすスーパーウーマンです。
でも、私の欲しかった母はどこにもいませんでした。
結婚することを伝えた私たち。
母が結婚を許すにあたって、彼に一つだけ必ず約束して欲しいことがある、と念を押して言いました。
「結婚したら、あなたの家で他人はこの子1人。だからどんな時でも、この子の味方でいてちょうだい。この子に悪いとこがあっても絶対に味方でいて1人にしないで。約束してくれますね。」
生まれて初めて聞いた、私への母の気持ちでした。
こんな風に私のことを考えてくれていたとこを初めて知りました。
罵倒されることはあれど、一度も褒めてもらったこなどなかった私。
大切に思ってくれていたんだ。
と知って、私は母がしてきた苦労にようやく目を向けることが出来ました。
現在の母と私
23歳でお見合いで見知らぬ土地に嫁いで他人と同居し始め、お姑さんにいびられながら、子育てと家事に翻弄される日々は心穏やかではなかったはずです。
ストレスの矛先が子どもに向けられるのはやってはダメなことです。
もちろん、子どもの頃の母の言動は許せないし、受け入れらません。
でも、私の知らない苦労をたくさんしていることに目を向けると、母は母なりに一生懸命だったんだとわかりました。
毒親の定義にある『支配』ということよりも、母は私が言うことさえ聞いてくれれば楽になれるという思いが強かったのでは、感じます。
それは実際私が子育て中に感じたことだから。
それを力でねじ伏せる方法しか知らなかった母。
なんて不器用なんだ。
スーパーウーマンだと思っていた母は不器用な人だったんだ、とわかった今は、ちょうど良い距離を保ってでお互いを思いやって過ごしています。
見出し画像は母が作ったマキの葉ヨモギ餅。
最後まで読んでいただいてありがとうございます!
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