「自由」とは冒険であり挑戦であり開拓
自由とは何か?っていうのを、受け売り的な空論を排して経験則のみからあえて考えてみる。人間は「自由」な言動をしてるつもりでも結局気づかぬうちに一定のパターンに嵌っていて、意外と「誰かの敷いたレール」の上を歩いていることが多い。
スーパーで自由に商品を選んだつもりでも、無意識にふだん目にする広告宣伝が頭に刷り込まれていて、広告で見聞きしたことある商品に無意識に手を伸ばしている。自由に自分の意見を言ってるつもりでも、無意識に自分の属する陣営(内輪)に対するウケ狙いの言葉、帰属集団からの承認欲を満たすだけの言葉に変質してるような事もある。
とは言いつつも、誰もが当然漠然ながらも「自由」を求めているに違いないと、それにほとんど疑いも持たなかったが、「自由にモノを言ってるつもりでもある一定のパターンに無意識に嵌ってモノを言ってる」と、はっきり気がついたのはやっぱり「コロナ禍」だった。
自由を求めていたはずの多くの人たちは「マスクをしろ!注射を打て!それが思いやりだ!」と人に不自由を強いるパターンの言葉に嵌っていったし、その逆の主張をする人たちも「自由」からというよりは「マスク村」に対する「反マスク村」というカウンター的な意味合いで、ある種のパターンに嵌った言葉で結束してしまったようにも見えた。自由にモノを言ってるつもりでも、結局自分と同意見の「仲間」にウケる言葉を吐き、承認されることで自身の居場所を確認して安心を得ている。それが「世間」に安住する日本人なのだと、「コロナ禍」で改めて実感を伴ってわかった。
じゃあ真に「自由」であるとは何であるかを考えてみると、それは既存のレールの上でなく自身の手で荒れた荒野の上にレールを敷くことであり、深い暗闇の中に電灯も持たずに手探りで入って進むべき道を見つけていくことであり...。例えば、ラブアンドピース的に無条件にスバラシイ!と讃えられるものでもなけりゃ、利己的で自堕落でケシカラン!と叱られる類のものでもない。
「自由」はけっこうハードでリスキーな「冒険」であり「挑戦」であり「開拓」でもあると思っている。「出勤」という拘束から自由になろうとすれば当然自身で事業を興して自ら販路を開拓していくことになり、そこに初めから道はない。暗闇の中を手探りして、進むべき道は自らの手で見つけていくしかない。