光と闇は対局でありながら常に紙一重でもある
タマキンは暗黒面に落とされタマキン・スカイウォーカーとなってしまったが、誰の心にも「暗黒面」はある。こういう話で鬼の首とったように責め立てている者はどれだけ高潔な人間なんだという話で、叩いて埃の出ない者などそうそういるはずもない。「罪なき者のみ石を投げよ」とキリストは言ったが、果たしてマスコミの中のどれほどの者がタマキンに石を投げる資格があろうか。
例えばタマキンは政策としていわゆる「103万円の壁」を撤廃しようとしてたようで、それをやると年間7兆円以上の税収減になるとも言われている。なので、それをよろしく思わない勢力がマスコミに垂れ込んで失脚させたようにも見える。政策に反対ならそれ自体を批判したり直に議論したりすればいいものを、堂々とは戦えないから道徳的な罪を着せて失脚させようというなら、それは弱者のルサンチマンそのものでもある。
本来であれば実力で相手を倒すべきところを、それができないから相手を「不道徳」な「悪人」と見立て、自らは「道徳」的な「善人」だとし、実力を用いずワラ人形みたいに「想像上の復讐」をする。そこに自らの実力を高めていこう、という発想はない。そして実力で相手と戦えないから「道徳」を持ち出し、「お前は不道徳だ!」と道徳マウントを取ることで「道徳上の復讐」をする。二ーチェはこれを「道徳上の奴隷一揆」とも言った。政治家でも芸人でも職分でなく「道徳」で叩くのは正面から戦えない心の弱さの裏返しでしかない。どんなに相手を落としても自分が高まるわけではないのに、それしかできないのは結局のとこ弱いから、卑怯者だからと言うほかない。
どんな人の心にも「暗黒面」はあり、時としてそれが表出してしまうことがある。自分の「暗黒面」を見ぬふりして「自らは道徳的な善人なり」という卑怯者にはなりたくない。「日常に帰る」のが目的だったはずの人が戦いそのものが自己目的化して逆の意味で「日常に帰れなくなった」例もあるように、光と闇は対局でありながら常に紙一重でもある。