コロナはハンセン病の相似形だった
当時の国策だったハンセン病隔離政策は平成8年に「らい予防法」も廃止され、今では誤りだったと認められたものの、当時これに異を唱えることは全体主義に逆らう覚悟が必要でもあった。明治35年、光田健輔という医師がその恐怖を煽りまくり、ハンセン病患者の強制隔離・強制収容を訴えたことで、その後半世紀以上も差別の温床となった「らい予防法」が制定される。
ハンセン病差別はよく知られるが、当時は遺伝性だと信じられていたため女性は断種・中絶させられ、結婚しても子供を持つことは許されなかった。療養所では医師も患者に触れようとせず、患者はこれでもかと消毒されたという。その後治療薬が開発されても光田は「気を緩めるな」みたいに患者の解放を認めなかった。光田は学会の権威となり世の中は隔離政策が支配的になっていたが、権威に屈せず敢然にそれに意を唱え立ち向かう者もいた。小笠原登という医師だった。
小笠原は当時の定説だった「らいは不治の病」「らいは遺伝性」「らいは感染力高い」というのを全て迷信だと喝破した。僧侶でもあった小笠原は実家の寺に治療費もろくに貰わず患者を住まわせ、その経験から「隔離政策は不要」という確信を得ていた。小笠原は患者を差別から守るためカルテにはあえて病名を書かず空白にしていたとも言われる。そして今ではもう明らかになってるものの、小笠原は「らい菌」という外的要因だけでなく、栄養不足や免疫力低下が発症の原因であることも見抜いていた。
ところがムラ社会的な学会はもちろんそれを認めず、小笠原の言論は徹底的に封殺され、小笠原は学会を追放される。隔離政策はより激しくなり、「公衆衛生」の観点から一般市民が患者の居場所を密告し合う「無らい県運動」も巻き起こった。小笠原はそれにも屈せず実家の寺に患者を匿い治療を続けるが、風評で立場を悪くし、奄美大島に行く事になる。日記に「患者たちと共に死せん」と書いた小笠原は生涯独身だったとも言われる。
まもなく社会現象としての「コロナ」が始まって5年になろうとしているが、知るほどにコロナはハンセン病の相似形だったことがわかってくる。そして日本において「コロナ騒動」があそこまでエスカレートしてしまったのは、日本人がハンセン病から何も学ばなかったことを意味しており、この先も「未知の病原体」が出てきた場合、やっぱり同じことを繰り返してしまう可能性を示唆してもいる。
小笠原の主張が長い年月を経てようやく認められたように、コロナ隔離やワクチンの不要を訴えた医師の正当性もいつの日か陽の目を見る日がくるかもしれない。孤高に戦い続けた小笠原の資料館も今月オープンした。結局、いつの時代も真実に到達できるのは孤高に生きる覚悟を持つ者だけだ。