『赤毛のアン』に出てくる犬年代記
赤毛のアン・シリーズには、犬がたくさん出てくる。
犬が好きで、好んで犬の話を読むような人のために、4匹を紹介しようと思う。
1、ジム船長と相棒だった犬
2、孤独なレスリーの老犬カーロ
3、ロディ・クロフォード少年とブルーノ
4、ジェム・ブライス青年とドッグ・マンデイ
1、ジム船長と相棒だった犬
『アンの夢の家』で、新婚のアンとギルバート夫妻が、隣人である灯台守りのジム船長の家へ遊びに行ったときの会話。
アレキサンダー・エリオットのような強烈な変わり者の、人生を圧縮するようなエピソードがさらりと語られるところが、アン・シリーズの醍醐味。
強いこだわりや個性が、譲り合って生きているのがいい。
2、孤独なレスリーの老犬カーロ
『アンの夢の家』で隣家のレスリー・ムーアが、飼っていた老犬を亡くす。
十六歳から十二年ものあいだ、困難な生活を続ける、孤独なレスリーを支えていた。アン・シリーズはどれも、複数の人生エピソードの編み物なのだが、『夢の家』のレスリーとジム船長のエピソードはとりわけ壮大である。
ジム船長の灯台からの眺めは、ぜひ、一度読んで欲しい。
3、ロディ・クロフォード少年とブルーノ
ロディ・クロフォードの父親が亡くなり、ロディ少年は、町にいるヴィニーおばさんの元に引き取られることになった。
ロディ少年の家と農園を買い取ったジェイク・ミリソンは、ヴィニーおばさんは犬嫌いだから犬を溺れさせるか早々に誰かに譲り渡すように少年に迫った。
そこでロディ少年は新聞広告を出し、ジェイク氏にひどく怒られながら5人の犬を飼うのに適当ではない人々を断り、
ついに、愛犬ブルーノを、ジェム・ブライス(アンの長男)に託した。
ジェム少年はブルーノを熱愛した。ブライス家の誰もがブルーノに親切にした。ブルーノは従順で行儀の良い犬だった。
しかし、いつまで経っても、ブルーノはよそよそしく、近づきがたく、よそものの犬のままだった。
ジェムは犬を抱きしめて幸福な気持で家に帰った。
しかし、最後の望みを失った小さな犬は、食べ物を食べなくなった。
ジェム少年は獣医の置いていった強壮剤を犬に飲ませて、ながいあいだブルーノを見つめていたが、やがて父と話すことがあって書斎へ行った。
次の日、父親は町へ行き、問い合わせたのち、ロディ・クロフォードを家へ連れて来た。
ロディとブルーノは人生の喜びを取り戻した。
そして、ジェムこと、ジェイムズ・マシュウ・ブライス少年は、一生犬を飼わないと心に決めた。
『炉辺荘のアン』では、アンの子供達の幼年時代が綴られている。
炉辺荘(ろへんそう)は、アンとギルバートが移り住んだ屋敷の愛称。
近くにある野原を、虹の谷という愛称で呼び、子供たちが遊び場にした。
4、ジェム・ブライス青年とドッグ・マンデイ
ドッグ・マンデイは炉辺荘の犬である。
月曜日にウォルター(アンの次男)がロビンソン・クルーソーを読んでいるところへ家族の仲間入りをしたので、その名前がついている。
マンデイは、黄色い体に黒い斑点がやたらについていて、その一つは片一方の目の上にきている。戦闘が不得手で耳はずたずたになっている。
容貌の良くない、至極ありふれた犬だったが、一つの強みを持っていた。
愛情深きマンデイは、炉辺荘の長男、ジェム・ブライスの犬になった。
年月は流れ、愛国心と正義感を持つ青年になったジェム・ブライスは、戦争に行くことを決意する。
村の皆が駅まで見送りに来た。ドッグ・マンデイも来ていた。
ジェムは炉辺荘でマンデイに別れを告げようとしたが、マンデイの訴えがあまりにも切実なのでジェムも折れて駅まで来させたのだった。マンデイはジェムの足元を離れず、愛する主人の一挙手一投足をも見逃すまいとしていた。汽車が発つとき、マンデイは陰気な声で吠えており、汽車を追って走ろうとするのを牧師が力いっぱいひきとめていた。
炉辺荘に帰った家族はマンデイがいないことに気が付く。
シャーリー(アンの三男)が探しに行くと、マンデイは駅の近くの積み荷小屋の一つにまるくなっていた。
なだめすかして家へ連れ帰ろうとしたが、マンデイは頑として動こうとしない。家に連れ帰り、閉じ込めたところ、断食を始めたので、家族は諦めてマンデイを放し、マンデイは駅に戻った。
家長のギルバートは、駅の近くの肉屋と、犬に屑肉を食べさせてくれるように取り決め、家族の誰かしらが毎日犬の様子を見に行った。
家族は戦地のジェムにそれを知らせた。ジェムは手紙にこう書いてきた。
『アンの娘リラ』のドッグ・マンデイは、名作の名犬の代表格。
ジェイムズ・マシュウ・ブライスは、ついに、最愛の自分の犬を手に入れたのだった。
『アンの娘リラ』では、末娘リラの精神的成長と、大切に育ててきた赤ん坊を戦争に取られて殺されるアンの苦悩と、戦争の集団心理の中で抑圧されていく繊細なウォルター青年の恐怖が描かれていく。
物語の終盤、意地悪で不満足な知人が、四年間の生死の狭間でも一ミリも成長しない精神で、リラに嫌味を浴びせる。
リラは手を動かし、雑音を聞き流しながら、重要な問題を考え続けた。
人生は大きいのだ。
こんな無意味な悪意を拡大して受け止めることに、時間を使う価値はない。
リラが「大人」になるまでの過程が見事に描きとられている。
終わりに:犬の話は立派な物語でちょうどいい
私はずっと、犬の話は、聖人君子のような悲劇が多すぎる、と思っていた。
確かにそこは犬の美徳のひとつであるが、
もっと、ライトでオシャレでお茶目なところをアピールした方が、
犬派の人間が増えるのではないかと、なんとなく思っていたのだ。
だが、今回、犬の文章を書き写していて、考え直すことになった。
最初の段差は高くていいのではないか。
狭き門のほうがいい。
ドッグ・マンデイに、恥じない自分かどうか?
犬は、忠犬ハチ公のように愛情の重苦しい難しい生き物だと、覚悟していたほうがいい。
生き物を飼うということは責任が伴うのよ、と大人が口を酸っぱくして言い続けるのは、子供を狭き門より入らせるためなのだ。