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「太陽の子」 ~君死にたまふことなかれ

映画版『太陽の子』が公開された。春馬くんの出演した最後の作品公開。
もうこれで、続きの春馬くんも、新しい春馬くんも、観られない…そう思うと気持ちが乱れてしまう。
この作品は最初に映画が完成し、そこから編集したものがドラマ版だということを知った。海外在住の私は当分映画の方は観られないが、ドラマ版を観た後に読んだノベライズでは、映像ではあまりはっきりと表されていなかった登場人物の心情やエピソードも詳しく書かれており、また別の味わいがあった。
ここには、ドラマとノベライズから今の時点で感じたことを残しておこうと思う。

太陽のような裕之

蝉が鳴く木々の緑を背に、金戒光明寺の山門を歩く裕之が登場するシーンの、遠くから引きの画であっても、姿勢の良さが分かる体幹のしっかりした姿を見ただけで、 ”ああ、春馬くんがいる…” と、胸がいっぱいになってしまう。

よろけながら家から出て来た母を支え、神妙な面持ちで「ただいま、戻ってまいりました」と挨拶する裕之を、息子の帰りをずっと待ちわびていた母親の目線で見ている自分に気づく。
春馬くんも、こんな風にある日ひょっこりと帰って来てくれるんじゃないか、そんなことを今も思ってしまう。

「痩せたな…」という母の言葉に「大丈夫や」と、笑顔になる裕之。
短く刈り込まれた頭髪に軍服姿の春馬くんは精悍だけど、笑うと『森の学校』の坊主頭のマトみたいに無邪気な顔になる。
「世津、ええ嫁さんになったのう」と、笑う表情はいたずらっ子のよう。
ノベライズの中でも、太陽のような…と例えられていた裕之は、苦しさを胸に秘めながらも、皆の前ではいつも輝くような笑顔で…まさしく春馬くんなのだ。

久しぶりに戻った家で、美味しそうに酒を飲み、「こういうのが食べたかったんや」と、ばら寿司を食べる裕之は、屈託のない明るい表情で、「せかほし」での食いしん坊な春馬くんを思い起こさせた。

君死にたまふことなかれ

三人で訪れた真っ青な京丹後の海で、修と並んで砂浜に座り「そろそろ部隊に戻る」と告げた時の裕之の、決心が揺らがぬよう真っ直ぐに前を見つめたままの、横顔を思い出す。

バスの故障で野宿した明け方、裕之がいないことに気づき探しまわる脩と世津。
ぽつんと浜辺に立ち、何かに引き込まれるように海へ入ってゆく裕之。
波に揉まれながら修に連れ戻された砂浜で、
「怖いよ…怖いよぉ」「俺だけ死なんわけにはいかん…死なんわけにはいかん…」
うめくような、裕之の悲痛な叫びに、胸が張り裂けそうになる。
春馬くんはどんな気持ちでこの台詞を言っていたのか…考えるのも辛い。
「戦争なんか、はよ終わればええ。勝っても負けてもかまわん!」
世津と脩と裕之の三人が、折り重なるようにしっかりと互いを抱きしめ、夜明けの海辺に裕之のむせび泣く声が響いていた。
お国のために、命をも捧げることが良しとされ、逃げることは男子たるもの一生の恥、個人の感情や幸せなどは押し殺さねばならなかった時代を、繰り返してはならない。

裕之の髪を切る母。陽のあたる縁側で束の間の穏やかな風景。
「痛ない?」と聞く母に「うん」と答える裕之は、子供に戻ったようだった。

裕之が部隊へ戻る朝、貴重な米で大きなおむすびを握る母。
行って参りますと挨拶する息子を、一瞬、抱きしめたそうにするのを堪えて、息子の感触を確かめるかのように耳に触れ、一言も発せず、離れがたい様子の母。
それを断ち切るように敬礼すると、くるりと母に背を向け二度と振り返ることなく歩き去って行く裕之の後ろ姿が、春馬くんと重なってしまい、涙が止まらなかった。

仏壇の前に喪服で座り、
「なんで、あの子が…」と、絶句する母。

再び、帰らざる出撃命令が下りました。
今に及び、心残りはありません。
裕之はお国のため、笑って死にます。
有難う。
左様なら。

裕之の手紙を読み上げる春馬くんの声が、微かに震えているような気がした。

おそらく終戦間近に部隊に戻り、散っていった裕之。
後もう少しだけ家に留まっていたなら…。

心が痛くて悲しくて、与謝野晶子の "君死にたまふことなかれ" という一節が頭に浮かんだ。



軍服姿の裕之を見ると、どうしても息子のことを考えてしまう。
私が暮らすこの国には徴兵制がある。男子は18歳になると全員兵役に着く義務があり、息子もあと数年したら軍へ入隊することになるだろう。
街を歩いていると、休暇で戻って着た軍服姿の若者を見かけることがあり、まだあどけなさの残る青年達を見るたびに複雑な気持ちになる。
息子は今は二重国籍だ。日本は重国籍を認めていないが、両親のどちらかが日本国籍を持つ子女のみ、期限付きで例外的に国籍を保留されている。
この国で生まれ育った息子のアイデンティティは日本人ではない。おそらく将来も日本国籍を選ぶ可能性はとても低い。
そうなれば、この国の国籍を持つ限り、ひとたび戦争が起これば男子は召集される。この国は長い歴史の中で常に隣国からの脅威にさらされて来たので、有事は現実に起こりうることだ。
私は息子を戦争へ送り出したくない。

そんなことを思いながらこの作品を観ていると、平静ではいられない。
どんな手を使ってでもいいから、生き延びてほしいと思ってしまうのだ。
親孝行など何もしてくれなくていい。
生きていてくれるだけでいい。



脩は、まだ見たことのない世界を見てみたいという探究心に突き動かされて科学者になったような、純粋だけど危うい青年だ。
家族には疎開を勧めながらも、自分は原子物理学者の端くれとして、比叡山の上空から原子核爆弾が爆発するのを見てみたいと言う脩に対して母は、
「恐ろしいことを言わはるな。家族だけ逃して自分は見物するやなんて。科学者とはそんなに偉いんか」
「そんならあなたの好きなようにしなさい。私はここを動かん。それが科学者の息子を持った母の責任や」
修の狂気をも飲み込むような、毅然とした母の態度に圧倒された。
実の親子ではない脩と実子である裕之への、分け隔てなく包み込むような愛情、自分の気持ちは堪えてでも二人が進みたい道へ行かせる強い覚悟。
母として、こんな風に何があっても動じないでいたい、と思わせる母親像を田中裕子さんが見事に体現していた。

いっぱい未来の話をしよう

映画の初日舞台挨拶で、黒崎監督が「足りないんじゃないか。なんで春馬くんがここにいないんだろう。…悔しすぎる。」と仰った。それは春馬くんが残してくれた映画が公開されるたびに、春馬くんと作品を作り上げた監督や共演者、春馬くんを想う沢山の人々が感じてきた気持ちを代弁してくれたようで、涙が出た。



部隊へ戻る前の晩、酒を酌み交わす裕之と脩。
「世津を幸せにしてやってくれ」「世津が好きなんはお前や」「兄貴は何もわかっとらんのぉ」裕之と脩のお互いが、世津を想う会話が切ない。
「勝手に決めんといて」と世津が加わり、裕之と修の手を取り、世津を真ん中にして三人が手を繋ぎ合うシーンは、物語の中でとても印象に残る。
「いっぱい、未来の話しよ」と裕之が言い、困難な状況の中でも必死で前を向こうとする三人の姿が胸を打つ。

春馬くんから、もっといっぱい未来の話を聞きたかったよ。
自分の力で夢を叶えてゆく、その姿を見たかったよ。

だけれど、春馬くんはずっと一生懸命に生きてきたのだし、作品の中で今も生き続けている。
『太陽の子』も『天外者』も更に海外で上映されるかもしれないし、マッケンのように春馬くんの作品を観て俳優を志す若者が、また現れるかもしれない。

春馬くんの果たせなかった夢を、また誰かが繋いでいってくれると、信じるしかない。

春馬くん、
それでいいんだよね


ノベライズでは、10年後の修と世津が描かれていた。
姿は見えなくとも、裕之もまた、そこに生きているのだと思った。







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森野 しゑに
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