「Be yourself~立命の記憶~Ⅱ」最終話
走り出す未来
「っていう話です。」
新大塚駅前の大きなビルの4階、引っ越したばかりのだだっ広い撮影スタジオの隣のミーティングスペースで、私はY氏に言った。
Y氏「確かに、チューもしたし、人も死んだね。」
私「なんなら、私が今やってるYouTubeチャンネルもホログラムで登場してる事にしちゃいましょうよ、近未来的に。ハハハ!」
Y氏「そしたら、このスタジオの出番だなぁ。」
そう言って、Y氏は、360度、モーションキャプチャーでアニメーションと合成できる機材を揃えたスタジオを見渡した。
「何かお手伝いできる事があったら言ってください。」
私がそう言うと、Y氏は「じゃぁ早速」と言って、スタジオのデモンストレーションに呼んでくれた。
「まぁアイちゃん、それだけ動いて生きてるから良かったよ。」
「入院したのは本当なんですけどね、腎盂腎炎でした。ハハハ。」
「腎盂腎炎?」
「トイレも行かずに仕事してたからですね。気を付けます。」
「ハハハ、そっか。」
「Yさんも、お身体はホントお気をつけて。ちょっと痩せました?」
「うん、ダイエット中。」
「あ、だからか!私も頑張ります。」
「そういえば、Kさん連絡取ってる?」
「前に連絡した時は、馬のシーン撮るのが大変で忙しいって言ってました。」
「あー、あれ5部作だからまだまだ忙しいだろうな。」
「ですよね。あと、良いものが出来た時はどーんと構えてりゃ良いんだよ、って言ってました。」
「確かにね。まぁ、まだまだ元気なんだったら良かったよ。出版、頑張ってね。」
「はい!ありがとうございます、頑張ります!」
***
そんな会話をしたのが、振り返ると2年前のちょうど今頃だった。
そして、2023年、まだ私はこの話を書き続けている。
どーんと構えるにはもっとブラッシュアップが必要だった。
最初にバンコクに行って魂の声を伝えたあの日、私は自分自身で運命を変えた。
立命。
運命を立てること。
『お母さん』という型に、はまっていた私が、自分らしさを取り戻した時、私の仕事が変わった。
音楽活動を再開すると、まずはスポーツ紙さんがCDのリリースを記事にしてくれた。
2018年9月29日。4日前に39歳の誕生日を迎えた私へのご褒美に、心ときめかせた日。
Yahoo!ニュースにも転載され、それをきっかけにしてか、SNSは、種類が偏ってはいるものの、フォロワーが増え始めてきた。
その後、SNS上で、自主制作の短編動画の依頼を貰い、原作、脚本、主演までやったり、著名な方々と少しずつ繋がり始めた。
そして、その頃、ものすごい詐欺師にだまされて、まんまと巨人ファンになり、それをきっかけに、また著名人と繋がっていき、面白いネタがどんどん増えてきたけど、その話はまた別な機会に。
他にも、知り合いの政治家の応援ソングを作って、選挙カーの上で歌ったり、
自主制作映画の界隈の繋がりから、カブキロックスの氏神一番さんと仲良くなり、共通の知り合いの映画監督の上田慎一郎さんがどんどん有名になっていく過程を眺めていたりした。
一方で、音楽家として、昔、デビューしたバンドの解散という、同じような辛酸を舐めていた鈴木玄太朗と意気投合し、ユニットを組んでYouTubeチャンネルも始めた。
2年かかって、やっとチャンネル登録者数は5000人を超えてきた。
年に一度、渋谷La.mamaという老舗ライブハウスでワンマンライブもやるようになった。
自宅では、コウジ(仮名)という居候が住みつき、その後、彼女ができて子供もできた。
その頃に、亡くなった私のママ友の子供を、ウチが引き取って里子にするという出来事があったので、フジテレビのドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」に取り上げてもらえた。
2022年6月5日放送だったので、番組を観てくれた方が、SNSでコンタクトを取ってくれて、自宅に寄付金を持ってきてくれたり、その後の音楽ライブに来場してくれたりもした。
あとは、この話を出版する事が、私の今の仕事になっている。
仕事って、お金だけじゃないメリットが必要な事。
私は、会社も、家事も、育児も、全部仕事。
生きてる事も、大仕事。
そして、仕事をするのに必要なのが、信用と信頼なんだって思ってる。
一流の人たちがみんな嘘をつかないのを、私は知ってる。
だから、私の見える未来を信じて欲しい。
あなたの見える未来も、信じて欲しい。
そして一緒に夢を追いかけよう。
私たちが、子供たちに見せるべき本当の姿を見せながら。