2024年の映画+αについて語る、の巻 〜日々娯楽日記 2025.01.02〜
いつもお疲れさまです。
そして、新年あけましておめでとうございます。本年もコツコツと文をしたためていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
さて、新年最初の記事は「日々娯楽日記」、またの名を感想の在庫一掃セールです。
去年の今頃も同じような記事を書いてましたね……。ネタ被りは重々承知なのですが、それもこれも感想を書き溜めたまま記事にしなかった私の責任です……。
(去年の記事は↓)
本当は1つの作品に対して1本の記事を書きたいのですが、それを行うにはどうにも私の構成力が不足しているようで、メモや下書きばかりが増える有り様です。なんとも導線の悪いnoteで申し訳ない……。
今回の記事では、主に2024年に観た映画の感想をいくつか書き、後半にはその他のコンテンツについて書いていきます。
また、書く書く詐欺を働いてしまっていた『水曜日のダウンタウン』の「名探偵津田」年末SPについては、別の記事に書いています。この記事と同時進行で書きましたが、どうにか形にできて良かったですっ
『銀魂オンシアター2D 金魂篇』(2024.11)
まぁ笑いましたね。個人的には元○でしこジャパンのキャプテンが出てくるところが一番のツボです。
原作を読み、アニメも放送当時に観てたので、懐かしさを覚えたのとともに、「やっぱり銀魂は面白いなぁ」と再確認しました。そりゃ、私の青春を彩ってくれた作品ですもの。並々ならぬ想いがあります。
「金魂篇」で注目したいのは、銀さんがどれだけかぶき町の仲間を大切に想っているかということです。普段はぶっきらぼうな銀さんが、洗脳された新八や神楽を元に戻そうと躍起になったり、たまを傷つけた金さんの“金さん”をぶち抜いたり、と仲間のために戦う銀さんが度々描かれています。
かと思えば、自分が居ない方が万事屋は上手く回ることを悟り、一時は身を引きます。その時の寂しげな表情が、銀さんの仲間への想いを物語っていました。
そんな仲間想いの銀さんだからこそ、周りに人が集まってくるのでしょうね。洗脳を解いた仲間たちが銀さんのために武器を取って、金さんを囲むシーンには胸が熱くなりました。
今年の10月には銀八先生のテレビアニメも放送されるとあって、再び銀魂熱が高まってきています。
銀魂展も開催中なので、そちらも行きたいですねー。東京の方は厳しそうなので、他の会期に行ければ……。
『楽園追放 -Impelled by 10th Anniversary-』(2024.11)
まさにフェチズムの極地。ロマンを感じる要素をこれでもかと詰め込んだSFの傑作だと思います。
戦闘美少女、戦闘ロボとその上をゆく人型ロボ、銃火器、ミサイル、ディストピア社会、神話的要素、荒廃した土地、ロストテクノロジー、人工知能、戦車、レールガン、ロケット、そして宇宙船……オタクにブッ刺さる要素の盛り合わせセットですよね。
映像のクオリティも凄まじく高く、何もかもがヌルヌルと動きまくってすげぇ感動しました。(語彙力の無さ)
作中のフロンティア・セッターのように人間と変わらない思考を持つ人工知能が登場する点は、生成AIが何かと話題になっている今の時勢とリンクしていますね。そんな人工知能を新しい人間として受け入れて、友人としてフロンティア・セッターの旅立ちを見送ったアンジェラとディンゴの姿は、多様性が叫ばれる今の世において理想的な姿なのかなとも思います。
10年前の作品でも全く古びることのない普遍性。それはSFならではの魅力なのでしょうね。
また、人間の実存について問う本作のテーマは、『攻殻機動隊』(特に押井守版)や『ニーアオートマタ』とも通じるものがあって、いろいろと深掘れそうです。
AIとの共存については、去年の「FGO」奏章IIIでも扱われていたこともあり、それと『楽園追放』の比較をしてみるのも面白そうですね。シナリオが奈須きのこ(FGO)と虚淵玄(楽園追放)という点も興味深いです。
と、いろいろと妄想を膨らませつつ、来年の続編を楽しみにしていますっ
『まる』(2024.10)
こんなにも作品の登場人物と演者がリンクした作品は他に観たことがありません。
自分が本当に描きたい絵、表現したいことと周りから求められる絵、または「画家 さわだ」のイメージとの食い違いや、売れる前と後とで接し方が180度変わる隣人たち。下心を持って接してくる人々に囲まれた環境に違和感を覚えてしまう主人公の沢田。
彼を演じる堂本剛氏についてはそこまで詳しくはないのですが(母と姉が昔からのKinKi Kidsファン)、アイドルとして周りから求められることと、自分が本当にやりたいことの乖離に苦労していらっしゃったそうです。
監督の荻上直子氏も、剛氏が演じることを前提に脚本を書いていらっしゃったとのこと。キャスト先行で映画がイチから作られるのは割と珍しいことではないのでしょうか。原作付きの映画に売り出し中のアイドルをキャスティングすることはしばしば見受けられますが(特に漫画の実写化映画)。先行例を挙げるとすれば、たのきん映画が該当するのでしょうか?(詳しくない)
加えて、円相をはじめとして、仏教的な要素を作中にいくつも散りばめている点も、剛氏の出演作として見事にマッチしているなと思います。剛氏は地元の奈良県の平安神宮で毎年ライブを開催するほど、地元愛ならびに仏教への信仰があつ(熱・厚)い方です。そのこともあって、剛氏と沢田がより一層リンクしているように見えるのです。
私としては、この映画は高く評価していて、他の方も高評価な感想を寄せているのですが、映画評論をしている方々にとってはそうでもないようです。決して面白くないわけではないのだけれども、評価するのが難しい。本作のテーマや物語の筋などは良しとしつつ、全国260館を超える規模で上映するほど大衆に向いた作品ではないように思える、という意見が見受けられました。
確かに、本作の内容は一言で言い表せないと思います。画家志望の男が「まる」を描いたことで人生が急変する──というとサスペンス的な話のようにも思えますが、それだけだと「自分らしく生きること」という本作のテーマや仏教を元にした思索的な要素を取りこぼしてしまいます。「まる」はあくまできっかけに過ぎず、物語の主軸に据えられているのは主人公・沢田と周りの人間の交流を描いたヒューマンドラマなのです。
この他、本作は堂本剛という人がどんな人なのかを多少なりとも知っているか否かで評価が分かれるのではないかと思っています。実際にネットの感想を見ていると、剛氏のファンの方は高評価で、剛氏のことをあまり知らない評論家の方は言葉を濁していらっしゃる印象を受けます。評論家の中でも、剛氏や荻上監督のことを知っている方は本作を高く評価していらっしゃいます。(身内贔屓といわれるとそれまでですが……)
それだけでなく、仏教・禅について関心があるか否かでも評価が分かれそうだと思いました。作中では、円相についてちゃんと説明されていますし、沢田と先生(柄本明氏演じる)がお茶会をしている際に話していた「これ食うて茶飲め」、さらにはミャンマー出身のモーさん(ミャンマー出身の森崎ウィン氏演じる)が「福徳円満」などの仏教の教えを説明する場面もあります。ただ、そこに関心が持てないとなかなか映画にハマりづらいかもしれません。
あと、細かい点ですが、現実と非現実を行き来するような演出も評価が難しい要素の一つと言えるでしょうか。沢田が野原でたくさんの人々に囲まれる場面だとか、後藤仁美氏演じるサチコが登場する際の幻想的な演出だとか、ある種のファンタジー的な要素も見受けられました。サチコが沢田に対して言った「あなたもわたしも土屋のペットなんだよ」という台詞は何やら不穏でしたが、特に回収されることはありませんでした。(土屋は沢田の「まる」を買い取った画商。早乙女太一氏の演技も相まってめっさ怪しい)
こうして考えると、本作が難しいと言われるのもなんとなく頷けます。とはいえ、自分らしく生きることの難しさを問うテーマだったり、自分らしく生きたいという気持ちに寄り添ってくれるような物語の筋は、多くの人に共感してもらえるのではないかと思います。
多様性が叫ばれる中、それでも無くならない生きづらさ。その気持ちを本作では的確に言語化しています。
その一例として、綾野剛氏演じる漫画家志望の横山が、プロの漫画家になれずに燻っている自らの現状を嘆く場面があります。8割の働きアリと2割の怠けるアリを例に挙げて、
「人の役に立つ人間になりたいの。漫画家として成功して認められたいの。でもこのままじゃダメな2割になっちゃう」
と語っています。そんな横山の叫びがあまりにも痛切で、かつ共感できるのです。なりたい自分の理想像はあるけれども、それを実現するにはあまりにも弊害が多く、それらを克服する過程で精神をひどく摩耗してしまう。私も似たような想いを持っていたため、横山の叫びは私の心に深く突き刺さりました。
横山の隣で話を聞いていた沢田は、「役に立たないとダメなんですかね?」と諭すような口調で話します。人間は生きているだけで十分すごいんじゃないか。そう語る沢田の言葉は、まるで横山に共感する私にも言い聞かせているようでした。
人の役に立つことだけが人生ではない。70億以上もの人がいれば、その数だけ異なる人生がある。どれが正解か、など決まってるわけではないのだから、自分の思うままに生きていけばいい。
映画『まる』は、今を生きる人の背中をそっと押してくれるような作品だと思います。
『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(2024.10)
この映画はマジでとんでもなかったです。観終わってからしばらく放心してましたもの。自分史上トップクラスに入るほどの衝撃でした。
今作について、某映画レビューサイトやSNSを見てみると、けっこう否定的な感想が多かった印象を受けます。
「前作にハマったファンを軒並み拒絶している」
「この内容の話をジョーカーの物語としてやる必要はあったのか」
そういった旨の感想が散見されていたように思います。他にも、「レディー・ガガに歌わせたいがためのミュージカル的演出」という感想も見受けられましたね。確かにちょっと浮いてた感はありましたが。
ただ、私としては今作を肯定的に捉えています。逆張り精神でそう言ってる節も多少はありますが(あるんかい)、この物語はジョーカーの物語であることに意味があると思いますし、ファンを拒絶することにもちゃんと意義があると思っています。ミュージカルは、まぁどっちでも。
今作について語る前に触れておきたい作品があります。それはミヒャエル・ハネケ監督が手掛けた映画『ファニーゲーム』です。
この映画は救いのない胸糞映画と評されています。理不尽な暴力に巻き込まれる家族。そんな彼らをゲーム感覚で痛めつける男2人組。エンタメ映画の約束事がことごとく打ち破られていき、作中の家族のみならず観客にも終始絶望感を与えてきます。
加えて、男らは映画を観ている観客に話しかけてきます。奴らは「第四の壁」(舞台やスクリーンと観客の間を隔てる概念上の壁。対岸の火事、的な意味合い)までも破壊して、クソッタレなゲームに観客も巻き込んでくるのです。
『ファニーゲーム』がここまで胸糞な内容で作られているのは、暴力的な映画を好んで観る観客と、その需要に応えてさらに暴力的な映画を量産する製作陣に対する批判の意図が込められているからだと言われています。
観客は最後にはハッピーエンドを迎えることが分かっているから、その過程で描かれる暴力シーンを許容してしまう。一方の製作陣も、しょせんはフィクションだからとタカを括り、暴力的な映画を作り続けてしまう。この状況に危機感を抱いたハネケ監督は『ファニーゲーム』を作ったのです。
なぜ『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(以下、『ジョーカー2』)の話の中で『ファニーゲーム』に言及したかというと、暴力的な映画に対する批判意識と「第四の壁」を用いた演出が『ジョーカー2』にも共通していると感じたからです。
まずは「第四の壁」について。『ジョーカー2』における「第四の壁」の演出は『ファニーゲーム』ほど露骨に為されていません。ただ、私が感じたところでは2箇所挙げられます。
一つ目は、アーサー(ジョーカー)の裁判がテレビで放送されていた場面。アーサーが撮影用のカメラをまっすぐに見つめていて、その映像を刑務所の看守や囚人たちが観ているという場面でした。それは、アーサーがテレビの向こうにいる看守(アーサーに暴力を振るっていた看守)を見つめているかのような映像になっていました。
この時、アーサーがバストショットで映されるのですが、彼がまるで映画を観ている私たちの方を向いているようにも感じたのです。
二つ目の演出は、映画の結末のシーン。囚人の凶刃に倒れたアーサーの姿が延々と映し出されていました。この時、カメラが徐々にアーサーの顔へと近づき、アーサーがこちらを見ているかのようなアングルになっていると感じました。
気のせいかと言われるとその通りなのかもしれません。ただ、これらの演出が決してなんの意味も無く為されているものだとは思えないのです。アーサーに見られているという感覚を私たち観客に与えることで、「第四の壁」が静かに崩されたと感じたのです。
続いては、暴力映画への批判意識について。そういうと、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。『ジョーカー』は悪のカリスマであるジョーカーを主人公に据えた映画で、1作目ではアーサーは何人も手に掛けたし、2作目の今作でも看守たちがアーサーに懲罰を加えたり、ジョーカーの信者たちが街中で暴動を起こしたり、と暴力を否定するどころかむしろ遠慮なく暴力シーンを描いているではないか。そのような意見も出てくるかと思われます。
しかし、ここで思い起こしたいのは、アーサーは最期まで幸せな人生を歩めなかったということです。病に伏す母親との2人暮らし。幼少期から受けてきた虐待。情動調節障害というハンディキャップ。待遇の良い仕事に就けず、余儀なくされる貧しい生活。母親や仕事の同僚、果てはたまたま出くわした街の人からも蔑まれる日々。心身ともに限界を超えたアーサーは、殺人という大罪を犯してしまうのです。
アーサーが有名なコメディアンを殺めたことをきっかけに、ジョーカー(アーサーが扮する)を信奉する人々が続出しました。ここで、ジョーカーが悪のカリスマとして君臨するのではないか、という予兆を見せて『ジョーカー』の1作目は終わりました。
しかし、続く2作目では悪のカリスマが君臨することはありませんでした。ジョーカーの信者は2作目でも出てきましたが、彼らが信奉しているのはあくまでピエロの格好をしたジョーカーなのであって、その正体であるアーサー・フレックではありません。それはハーレイ・クイン(リー)も同様でした。
リーはアーサーに献身的で、彼の裁判でも「私が弁護する!」と言い出すほどでした。二人が互いの愛を確かめ合うシーンもあったりと、従来の『バットマン』シリーズのジョーカーとハーレイ・クインと同様の愛人関係を築くのかと思っていました。しかし、裁判所から抜け出たアーサーがリーと再会した時、リーがアーサーを助けることはなく、アーサーはあえなく刑務所へ逆戻りになりました。
(そもそも、本作のハーレイ・クインはアーサーの妄想の中の人物だという噂がありますが)
『ジョーカー2』では、ことごとくアーサーに不幸が降りかかってきます。それこそ、『ファニーゲーム』にてパウルとペーターの理不尽な暴力に晒されたショーバー一家のように。
アーサーに関しては殺人者への自業自得だと考えることもできるのでしょうが、前作で彼の半生を観てきた私たちには、決して自業自得だと断じることはできないでしょう。
人々の悪意や社会の理不尽さに苦しめられてきたアーサーは、何ものにも復讐を遂げることなく無惨な最期を迎えました。そのような物語が作られたのは、どんな理由があっても殺人は許されない行為なのだということを訴えるのとともに、暴力的な映画を観ておきながら「あー、面白かった」と観客が安易に消費してしまうことを防ぎたかったからなのではないでしょうか。
暴力性の有無に関わらず、ほとんどのエンタメ作品ではカタルシスがもたらされるものです。ヒーローが悪者をやっつける勧善懲悪モノを観て、人々は感動を覚える。カタルシスを生むために、製作陣は様々に作劇を行うわけですが、『ジョーカー2』では徹底してカタルシスを生まない構成にしているようでした。アーサーが不幸な目に遭い続ける展開はその最たる例でしょう。
加えて、先述した「第四の壁」を崩す演出を施すことで、観客である私たちに「これは他人事で済ませてはならない」という意識を植え付けようとしているのではないでしょうか。
暴力的なモノをみて、暴力を好む人間になってしまう。そんな極論を唱えたいわけではありません。しかし現実世界で、ジョーカーの格好をした人間が公共の場で無差別に人を襲った事件が起きてしまったことを踏まえると、無責任に暴力的なモノを受け入れてはいけないなと思うのです。それを作る人も、観る側の人も、みな等しく責任を負わないといけないのかもしれません。
トッド・フィリップス監督が手掛ける『ジョーカー』は今回で終わりになるでしょう。しかし、ジョーカーというキャラクターは半世紀以上にわたって、今もなお生き続けています。彼はこれからも悪のカリスマとしてバットマンに立ちはだかるでしょう。
確かに、ジョーカーは魅力的なヴィランです。クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』でも、ジョーカーの存在感に圧倒されました。
とはいえ、ジョーカーのカリスマ性がもたらす弊害について、今一度考え直さないといけないと思うのです。
その他、2024年のコンテンツについて
2024年の映画でいうと、他には『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』や『ルックバック』も観ました。ですが、『まる』や『ジョーカー2』の感想を書くのに力を入れ過ぎてしまったので、この2本については割愛で。
また、週刊少年ジャンプの話で言うと、『僕のヒーローアカデミア』と『呪術廻戦』が完結しましたね。一時代を築いた2作品が続けて完結し、一抹の寂しさを感じます。今のジャンプの連載陣も決して悪くないのですが、ずば抜けた作品が現れることを期待せずにはいられません。今の連載陣だと、逃げ若、あかね噺、アンデラ、シド・クラフトが好きです。あと超巡は長生きしてほしい……の精神です。
それから、ジャンプ+の『ハイパーインフレーション』を遅ればせながら読みました。めっちゃアクが強いのですが、一度ハマると止まらない魅力がありますね。あと、ギャグとシリアスがテンポ良く織り混ざった構成が『銀魂』とか『ゴールデンカムイ』を連想させて、大変私好みでした。
2024年を振り返ると、本をたくさん買った1年だったなぁと思います。清涼院流水の『神探偵イエス・キリストの冒険』をはじめとして、星海社の新刊を続々と買いまくりました。星海社さまにはいつもお世話になっておりますm(_ _)m
また、文学フリマの同人誌を通販で取り寄せたり、京極夏彦と米澤穂信のサイン本も買いました。無論、『神探偵』も保存用として買っています。
アニメの方も、個人的には豊作でしたね。〈物語〉シリーズや逃げ若、さらには『BEASTARS』もあって、1年を通してずっと楽しめました。
(2024年夏アニメの感想は↓)
それでは、今年も良い作品に巡り会えることを願いつつ、ここで筆を置かせていただきます。