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「戦国時代」ってなに?


はじめに

今回は、歴史好きの私が日本の「戦国時代」をざっくり読み解きます。分かりやすく説明するため、事実をかなり歪曲してお伝えすることもあるかもしれません。専門家の皆さん、その辺はどうぞ寛容な心で温かく見守って下さいませ。
 
日本の戦国時代は、ざっくり言うと室町幕府が機能不全に陥っていた期間のことを言います。1467年の応仁の乱にはじまり、1573年の15代将軍足利義昭追放までを一般的には指すのかなと思います。でも室町幕府はせっかく足利尊氏が作ったんですが、すぐに兄弟喧嘩が始まり、そこに朝廷なんかも絡んで来て、それが収まるのは三代義満の時代。で、その子の義持ぐらいがせいぜい室町幕府がまともに機能していた期間(1369年~1428年)になるだろうなあと私は思っています。なので私的には室町時代全般が戦国時代だったと言ってもいいんじゃないかな?とさえ思いますね。

戦国大名誕生

室町幕府って具体的に何やってたのかと言いますと、まあ今で言うと領主向け行政サービスですね。(因みに鎌倉幕府は基本的にそれが出来なくなって滅びました)内容は色々ですけど、主には土地争いの仲介ですね。今でもありますよね。隣の柿の木が伸びて来て困るとか、勝手に隣人が自分の家の木を切ったとか植えたとか。知らない間に自分の土地に建物が建ったとかですね。昔はもっとレベルの大きいことなんですが、そんなことが頻発してたんです。だから領主が幕府に「何とかしてくれ」と仲裁を頼むんです。幕府は関係者の言い分を聞いて争いを納めるというわけです。中には何百年前の土地について「どうにかしてくれ」という話もありますから、単純にエイヤーとやれないことも多かったでしょう。まあ、大変な仕事なんです。幕府がしっかりしている間はそれで良かったんです。でも応仁の乱みたいな戦乱が続きますと、幕府は開店休業状態に陥るわけです。将軍はいるけど形だけということですね。そうなると領主たちは困りますね。そこで知恵を絞って編み出したシステムが「戦国大名」というわけです。簡単に言うと、領主が何人か集まった地域の中で、頭一つ抜けてる領主を“大名”として頼ろうというわけです。信州の武田や美濃の斎藤というのはそういう家です。大名は一応他の領主を“家臣”として扱い、戦の時にを出してもらったり、労働力を提供してもらったりします。基本的に強制的な命令というよりは「お願い」ベースですね。その代わり、大名は彼らの領地の安全を武力で保証します。ですから家臣とは言っても頭一つ抜けている程度ですので、おおむね横並びの関係と言って良いと思います。特殊な例(織田信長や羽柴秀吉)を除けば、武田や斎藤も家臣とはほぼこうした緩い関係でした。このことは後で重要となるので、覚えておいてください。
 
当然、土地の安全が保証できなくなると大名はその地位を失います。有名な例では桶狭間で敗れた今川家がありますね。義元が死んで氏真が後を継ぎますが、こうした関係を上手く家臣たちと築くことが出来なかったため、彼は大名としては失脚します。

戦国時代が長引いたわけ

さて、どうして戦国時代は長い間戦を止められなかったのか?今の私たちの感覚では「譲り合って仲良くすればいいのに」と思うのですが、そうもいかない事情があったんです。私は戦国時代の殺し合いが中々収まらなかった理由は主に3つあると考えています。
 
一つ目は先ほど言った幕府の弱体化です。これが一番大きいと思います。二つ目は当時の農業生産の在り方ですね。当時は耕うん機などありません。有るのは簡単な農具だけ。農作業はほぼ全て人力で行います。ですから農業生産高が知れてます。そんな状態なのに、やれ日照りだ冷害だ洪水だと自然災害が容赦なく襲います。折角作った農産物も消費される前にゴミの山です。これでは安定した食料を確保することが出来ません。三つめは季節毎の疫病の蔓延による人口や労働力の低下です。とんちで有名な一休さんが、正月になるとドクロを掲げて京都の町を練り歩いたなんて話もありますね。昔は医療体制が脆弱ですから、疫病が流行ると一発です。今でさえコロナが流行した時期はえらい騒ぎになったわけです。まして当時は罹ったが最期です。ひとたびこうした疫病が地域を吞み込むと、今では想像できない阿鼻叫喚的な世界となりました。結局のところ、こうした災害が起きても中央政府がしっかりしていれば、それなりの対処も出来るんですが、戦国時代はそうした頼れる「大きな政府」が実質存在していません。

大名の仕事

戦国大名たちは、土地争いの解決だけでなく、こうした災害から領民を守る、あるいは領民を食わせる必要がありました。戦というのは、戦国大名にとって、まさに他国から作物や労働力を奪取して領民を食べさせる、いわば撫民政策の一環だったわけです。そうせざるを得ない事情があったというわけです。こうした負の傾向がそれなりに収まって来るのは、やはり安定した政府が誕生した江戸時代に入ってからですね。元禄文化化政文化なんてのが登場するのは、人々の心に余裕が出来たからでしょう。文化はいつの世も、人の心が充実していないと生まれないものだと思います。
 
戦国時代が長く続いた原因は、私は実はもう一つあると思っていて、それは戦国時代の「戦いの慣習」にあったと思います。それがどういうことか説明しますね。あくまでも基本的なルール?の説明なので、これが絶対通用するシステムというわけではありません。悪しからず。

例えば今、武田が上杉の領地へ攻め込むとします。もちろん国境の領主たちはたまったものではありません。そんなが流れてくると、多くの領主はそっくり上杉から武田に寝返ってしまいます。武田はそんな彼らを温かく迎え、領地の安堵を約束します。この時領主に発行されるのが「安堵状」です。貴方たちは従来通りこの土地を治めて下さい。私が武力で守ってあげますよ。という内容ですね。今の感覚だと、寝返るなんてとんでもない奴だと思いますが、当時はそれが当たり前なんです。だって誰も死にたくないですから。先ほど、大名と家臣の関係は横並びと説明しましたが、これが許されるのは、大名と家臣が緩い上下関係だったからです。大名は元々自分たちと同じ身分であり、たまたま頭一つ抜けているだけの存在と認識されていたのです。当然、上杉が攻める場合はその逆の事態が起こるわけです。

信長登場

ある意味このシステムは、戦闘を実際にやらないでも戦を終わらせる有効な手段とも言えそうです。労働力が今よりも貴重だった当時では、このシステムが色んな大名に浸透していっても不思議は有りません。ところが、これが戦国時代を長引かせた原因の一つでもあったのです。何故か?だって人が死なないから、戦国状態はいつまでも終わらないんです。結局人の移動繰り返すだけで終わりですから。それでは何も変わらない。そこに気がついたのがあの織田信長だったわけです。

信長は基本的に裏切りを許しません。敵が帰順しても、難癖をつけて殺してしまうことも多々ありました。これは信長の性格過去のトラウマという要素もあったでしょうが、それ以上に、戦国を終わらせる一つの彼なりの解決策だったんじゃないかと思います。例えば信長が近江に攻め込みます。そこは浅井氏という大名が統治していました。ご存じのように浅井氏は理由は定かではありませんが、義兄である信長を裏切りました。その挙句、信長は浅井氏やその家臣の多くを殺害しました。これは無論報復の意味も在りますが、在地の領主を葬って、自らの家臣を新たに入植させるという目的もあります。こうして新たに浅井の領地に入った家臣たち、例えば羽柴秀吉なんかに与えたのが「宛行状(あてがいじょう)」です。これは先に書いた武田の発行した「安堵状」とは全く違うものです。安堵状はあくまでも領地を治める主体は領主なんです。大名は彼らの領地を基本的に取り上げたりはしません。だだ安堵するだけです。それに対して信長の発行した「宛行状」は、「お前に統治を委任させる」というだけの内容です。つまり、単なるレンタル許可書なのです。信長が気に入らなければ、いつでも没収というわけです。

信長システム?のはじまり

信長は新規で獲得した領地を一旦自分の懐に入れます。それを家臣たちの才能や功績のあるものに“与える”のではなく“レンタルする”だけなんです。つまり、領地の主体は家臣でなく信長なんです。まあ、例えれば、信長が信長株式会社近江支店長に、秀吉任命したということですね。ですから、信長が気に食わなければ、後になって支店長を飛ばすことが出来ます。辞令一枚ですね。

でも、武田家が安堵した領主たちからその土地を奪うことは、余程のことがないと出来ません。信長は武田や上杉のような緩い関係でなく、家臣とは明確な上下関係を強いています。明らかに信長は「お前たちの主人」であるという認識でした。それはこのように「土地の扱い方」の違いから分かるわけです。信長がこのような土地の扱いが出来たのは、ひとえに他の大名を圧倒する強大な軍事力と財力があったからに他なりません。彼はこの力を背景に、家臣とは土地を媒介とした関係(一所懸命)ではなく、他の大名たちが成しえなかった土地を媒介としない絶対的主従関係の構築を目指すことが出来ました。その後継者としての秀吉もこうした関係を基本的に家臣たちに強いています。この関係が完成したのは江戸時代になってからだと思います。佐竹氏が家康によって秋田へ追いやられたのは、その最たる例と言えます。

戦国の終わりは「鉢植え」のはじまり?

戦国時代の終わりは結局のところ、土地と長年癒着する領主たちをその場から引き剝がし、見知らぬ土地へと追いやるだけの軍事(説得)力を秀吉などの特定の大名が持つことが出来たことを意味していると私は思っています。
 
日本の戦国時代というのは、ざっくりいうと以上のような性格を持つ時代だったというわけです。本当に戦国時代に生まれなくて良かった。
 
                              おしまい


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