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タイパを気にして音楽を楽しめる人は凄い!


ご挨拶

ひさしぶりの音楽ネタです。私、かなり緊張しながら今noteを書いております。と申しますのも、最近は音楽関係のライターさんが、ちらほらフォローして下さるようになりましたものですから。果たしてそういう手練れの方に、私の文章が通用するのかどうか不安なわけであります。そんな気持ちを引きずりながら、今回のエッセーを書き進めて参りたいと存じます。

レコードの復権

長らく建設中であった名古屋栄の中日ビルが昨年完成しました。驚いたことに、テナントの一つにレコード店が入ったんです。中日ビルは栄のランドマーク的な商業施設です。そんなモニュメンタルなビルの中にアナログ文化を代表するレコードを扱う店が入居したわけです。CDショップが軒並み潰れて行くというのに。確かにここ最近、盛んにレコードの復権メディアで報じられておりましたが、いま一つ実感を持てませんでした。しかしこうやって間近にショップが新設され、しかも栄を代表する建物の中に入ったという現実を見ると、デジタルでは物足りないと考える音楽ファンが、いよいよ顕在化してきたのかなあと思います。レコードの魅力を知人に聞いてみると、こんなことを言っていました。

レコード針を落とす瞬間のワクワク感。針とレコード盤の擦れるノイズ。部屋の空気。そういう雑多な音を全て包括した温かいレコードの音楽。

それが醍醐味なんだとか。なるほど。

アナログレコードの良さは、一見余分と思われがちな「雑多なノイズ」を含みながらも、ふくよか聞こえるものだということです。「無駄なものが実は無駄ではない」まるで哲学のような話ですね。音楽を楽しむために敢えて手間をかける。手間をかけるからこそ愛おしく思える。そういう面もあるのかも知れません。「手間のかかる子ほど可愛い」なんて言われることもあります。私は幼少の頃、病気という病気を経験して「もう大変だった」と母親が嘆いていたことがありますが、そんな私は、母親にとって可愛い子供だったのかどうか?答えを聞くのが躊躇われるので、いまだに確認してはいません。

タイパを気にするZ世代の若者たち

その一方で、Z世代の多くがほんの数秒聞いただけで、次々に曲を変えて聞くという離れ業をやってのけているといいます。なんでも「タイパ」を気にしているのだそうです。好きでもない曲を長々と聞く時間がモッタイナイのでしょう。それほど自分は暇ではないアピールとも取れます。こうやってZ世代は「生活の質」を高めているという、評価もあるようですが、果たしてどうなんでしょう。動画を倍速で鑑賞するのも当たり前だとか。映画など、本来「余韻」を楽しむ作品も、彼らにとっては普段見ている「風景」となんら変わらないのだと思います。とにかく時間がもったいない。そんな彼らは、この世の全ての物を「数字」で理解しているんだと思います。数字が少なければ少ないほど価値がある。そのように考えているんだと思います。拝金主義の成れの果てとさえ思えてしまいます。「時は金なり」ですから。空気感や趣きといった情緒は、彼らに一切考慮されません。そんな彼らが果たして質の高い社会を営むことが出来るのか?その結果は、いずれ我々が近い将来目の当たりにすることになるでしょう。

音楽に限っていえば、恐らく作り手の側もそれに対応するような楽曲作りをしているのだと思います。そうでなければ聞いてもらえませんから。数秒で好みの感覚に当たらなければ、その曲は斬り捨てられる。娯楽は消費物とは言え、ここまでドラスティックになってしまったのかと、驚きを禁じ得ません。作り手も瞬時にインパクトを与えるフレーズを編み出さねばならず、その労苦は計り知れないものだと思います。同じようなテイストは飽きられてしまいます。他との差別化をいかにして作り出すか?クリエイターには大変なプレッシャーでしょう。

もし仮に、この場に3秒で次々と楽曲を変えて聞く人がいたとします。4秒目にもしかしたら、彼がすっごく気に入るリズムや、すっごく気になるフレーズが登場する曲があるかもしれません。3秒で曲を変えてしまうのですから、彼はそのすっごく気に入るリズムや、すっごく気になるフレーズ出会うことなく、生涯を終える可能性があります。実にもったいない人生だと私は思います。それは、昭和歌謡やクラシック音楽で耳を慣らした団塊ジュニアの私だから思うことなのでしょうか?当然若者がこのような楽しみ方が出来るのはポップスだから出来ることです。クラシック音楽ではそうはいきません。そんな聴き方をしていたら、そもそもクラシック音楽は全く楽しめません。だからZ世代の若者にクラシック音が全く眼中にないと言われても十分に納得出来ます。もちろん、彼らの世代でもクラシック音楽を楽しんでいる人は大勢いると思いますし、そう信じたいですが…。

フレーズを紡ぎ出す苦しみ

私はプロの音楽家の手を借りて、オリジナル音楽(クラシック音楽テイストの)をディレクションして楽しんでいます。主にピアノ曲を制作しているのですが、例えば短いサロン風のワルツ3分半程度の物ですが、中にはモティーフを考えるのに2年を要したものもあります。書き始めた時はすんなり行ったものの、Bメロを書いている途中で頭が固まってしまい、そのまま2年程塩漬けになりました。たった3分半の曲のモティーフを作るのに、2年の歳月を要したのです。その間、パソコンに向かって鍵盤を叩きながらモティーフを探ってみましたが、どれだけ叩いても納得のいくフレーズに出会いません。それは実に苦しい。気持ちはモヤモヤするし、ある種の脱力感さえ感じます。そんな状態が2年も続いたのです。その甲斐あってか、最後には納得のいくフレーズにたどり着き、結果お気に入りの一曲を制作することが出来ましたけどね。

これはもちろん私が素人だからです。プロは次々に作品を生み出さないと仕事になりませんのでね。しかし、立場の違い関係なく、ゼロから「音」を生み出すというのは本当に難儀なことなのです。例えそれがベートーヴェンであろうとも、無名の作曲家であろうとも、一つの音楽を全くの「無」から生み出すというのは、とてつもなく大変なことなのです。大げさかも知れませんが、それはあたかも「宇宙」を創造するようなものだと思います。ゼロから1を生み出すというのは、それが何であれ、実に尊いことだと私は思うのです。ですから、作られた音楽を最後の一音まで聴くというのは、作り手に対する敬意だと思います。自分が感動できる音楽に出会えた喜び、そんな作品を提供してくれた作り手に対する感謝。コンサートの最後でお決まりの拍手をするのも大切ですが、私は奏された音楽を最後までしっかりと耳に収める。これこそが作り手や奏者に対して最大の敬意だと思います。

そもそも手間暇かけることに価値はあるのか?

団塊ジュニア世代の私は、有益な情報を得たり、良い音楽で心を満たしたりするには「手間暇かけた方が良い」と考えるのですが、Z世代の若者たちにとって、もはや情報は有益でなくても、音楽で心を満たす必要も無いのかも知れません。ただそこにあれば良いお守りのようにあるだけで「安心」出来るのかも知れません。その善し悪しを判断する時間さえもったいない。情報や音楽は、彼らにとってはまるで水のように蛇口を捻れば自動的に流れて来る。生み出す側の苦労など関係なく、それを受け取れば良いと極めてシンプルに考えているのだと思います。ひょっとすると、既にあらゆる物の「価値観の転換」が始まっているのかも知れません。これまで価値があると思われていたものが価値を失い、価値の無いものに価値を見出す。Z世代の若者は、ある意味実は感覚に敏感な世代なのかもしれません。

タイパを気にして音楽を楽しむ若者の可能性

Z世代のタイパを気にする若者たちが、秒で音楽を変えようが、倍速で映画を鑑賞しようが、ちゃんとその音楽や映画の内容を把握し、そこから自らの人生に有益な「情緒」を取り出しているのだとしたら、それは私のような愚鈍な人間よりも、よほど優れた能力を持っているといえます。普段からこのような「技」を磨いていると、彼ら特有の感覚で、あたかもバーコードを読み取るように、瞬時に旨味を感じ取る。そうした特殊な能力を彼らは身に着けている可能性もあります。もしそうなのだとすれば、タイパを気にするZ世代の若者は、日本の将来を、もっと質の高い物に変えられる救世主なのかも知れません。

だから私は言いたい。
タイパを気にして音楽を楽しめる人は凄い!
のだと。

                              おしまい

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