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ポップスの手法でクラシック音楽?を制作する私
音楽をアップしてますけど…
私は最近、音楽家と合作した作品をnoteにアップしています。素人でもプロとタッグを組めば、こういう音楽が出来ますよ、ってことを皆さんに知って頂きたいという目的もあります。自分の感性がどの程度人の心を動かすのかを知りたい、という目的もありますね。まあ、目的なんて関係ないんですけどね。音楽を聴いて下さったフォロワーさんからのコメントは実に励みになりますし、逆にコメントを読んでいると、いかにクラシック音楽が堅苦しい物として世の中の人に映っていることを体感します。その理由も何となく分かりますし、その気持ちも痛いほど分かります。私もその一人なので。でも好きだから聴いている、それだけです。理屈なんて知らないし、楽しむだけならどうでも良いと思っています。確かに、私は音楽を制作していますが、理屈は音楽家に一任しています。何らかの名前が出る以上、数ある仕事の一つとは言え、音楽家も真剣に作曲するでしょう。私は理屈でなく感性の部分ですね、そちらを音楽家に提供しているんです。だから私の感性は理屈でちゃんと包まれていると思います。
理屈は知らないんです
私は音大を出てませんし、楽典なんて全く知りません。書くのは単旋律の小学生でも書けるような簡単な音符だけ。譜面にあれこれ楽想を書き込んで音楽家に渡します。ただそれだけ。だから音楽の理屈なんて全く分かりません。寧ろ知らない方がいいとさえ思っています。だって知ってしまうとルールにこだわってしまって、自由発想でメロディーが作れなくなってしまいます。世話になっている音楽家が言っていたんですが、素人は音楽のルールを知らないから思わぬ旋律を作って来る。それが面白いし、新しい発見をすることもあると。音楽の場合、歴史を見てもルールの逸脱がそのままクラシック音楽の歴史だと思う面もあるので、音楽にとってルールはあくまでもあった方が良い、という程度なのなあと思うこともあります。まあ、素人ですから。特に私の場合、「馬鹿の一つ覚え」で習ったことをずっと繰り返すクセがあります。例えばメロディーは4小節の折り返しで作る、と音楽の授業で習ったんですが、これが頭に張り付いていて、今でもそれが基本になってます。でもある音楽家に、
「たまにはそういう小節の区切りを意識しないでモティーフを作ってみては?」
と言われ、4小節の呪縛を開放するのに随分苦労した経験があります。だから理屈は下手に覚えない方が無難なんです。コード進行さえ知らないんですから。
私は音楽的にはズブの素人です。そんな私がドボルザークの「新世界」の沼にハマって以来、どうしたわけか天から?メロディーが降って来るようになり、縁あって知り合った数人のプロの音楽家の手を借りて作品を制作しているわけです。そういうことを考えると、たぶんポップスの作り手に似た環境かも知れませんね。ポップスを作る人が全て楽典に通じているとは思えないし、音楽ソフトを使ったり、最近ではAIに作らせたりする人もいるでしょうし、必ずしも楽曲制作者が音楽の理屈に通じている必要は無い気がします。
作っているけどジャンル分け出来ないんです
私が制作している音楽のジャンルって決めるのは実は難しいんです。一応クラシック音楽だと称しているんですが、恐らく本式の人からしたら「これは決してクラシック音楽ではない」と一笑に付されるかも知れませんが、とはいえポップスではない。ジャズでもないし何だろう?私はジャンルレスが良いんですが、なんせ多様性の時代なんで。海外はそれでOKみたいですが、とかくレッテルを気にする日本ではそうはいかないようです。ポップスなのかクラシック音楽なのかでリスナーが聞き分ける傾向が強いと思うんです。配信とかやろうにも、どのジャンルに振り分けたら良いのか分からないんです。そんなの関係なしに「ただの音楽です」で通用すれば良いんですが、そうは問屋が卸しません。だから便宜上「クラシック音楽」としていますが、本当はそうじゃないと思いますね。だからですかね、クラシック音楽は聴けないけど、私の制作する楽曲は聴いて下さる人がちょこちょこいる。そういう人にとって、クラシック音楽は難しいのでしょうし、聴く時に構えてしまうんでしょうね。まあ、多分そういう見えない「圧」みたいな物がそこかしこに存在しているのだと思います。私もそれは何となく感じています。口には出さないけど…。
例えばこの曲はというと
これはまあクラシック音楽といって良いかもしれません。フォーレの有名な「シシリエンヌ」を意識した作品ですから。でも、別にクラシック音楽を聴かない人も十分に楽しめる内容だと思います。フルートが哀愁に満ちた旋律を歌い、ハープとオケが優しく支える構図になっていますので。ちなみにこの作品は、珍しく旋律は私が「作曲」しました。だからメロディー自体は非常に単調なんです。でも音楽家が楽器を巧みに操って飽きない工夫をしてくれています。この曲はディヴェルティメントの第二楽章として作りました。第一楽章がモーツァルト的な古典派スタイル。第三楽章がバッハ風なフーガになっていて、一つの組曲の中で古典派、初期ロマン派、バロックという違った作風が楽しめるという一風変わった管弦楽組曲になります。その内残りの楽章もアップしたいと思っています。
この曲はピアノソナタの第二楽章として制作した物です。ピアノソナタというと、真っ先にベートーヴェンの作品が思い浮かぶと思いますが、あれは王道のピアノソナタであって、現代はファジーな様相を呈しています。ソナタだからといって別にソナタ形式を使う必要もありません。そう言えば、有名なモーツァルトの「トルコマーチ」ソナタはソナタ形式を使っていないんでしたね。まあ、その昔もそういうのもあるってことです。音楽は自由なんですね。誤解を恐れずに言えば、まあ、そう「言ったもん勝ち」という感じです。この曲を合作した音楽家はクラシック音楽をもちろん勉強してはいますが、本人もあまり得意ではないと仰っているし、ポップスやジャズを得意とする音楽家です。むしろそういう人と一緒にクラシック音楽テイストを持つ作品を作りたかったんです。あくまでも私のイメージですが、クラシック音楽の新作は学術的で難解な物が多く、私なんぞでは到底近寄れない高貴な代物です、私はクラシック音楽畑で育った人間ではないので、そうした慣習とは無縁な存在ですから、この作品のような、クラシック音楽を特に聴かないという人にも寄り添った雰囲気を持つ作品を制作して行きたいと思っています。
「何じゃこの曲、やたら短いじゃないか?」と思われた方もいらっしゃると思います。それもそのはず。これは変奏曲の一部なんです。元々ピアノ曲なんですが、それをオーケストレーションしてピアノ協奏曲として制作しました。構想20年にしてようやく完成したクラシック音楽の歴史をたった数分で何となく理解出来てしまうお得な変奏曲。それが変奏曲「セピア色の諧謔」です。セピア色というのはクラシック音楽に抱く私のイメージカラーです。”諧謔”なんて難しい言葉を使ったのは、決してパッと思いついて作ったわけではなく、ちゃんと長年の構想の上に作りましたよ、ということを暗に言いたかったのです。モーツァルトに「音楽の冗談」という曲がありますので、そこから名前を発想しました。最初に私の書いた主題がありまして、それをバッハ風、モーツァルト風、ベートーヴェン風、ショパン風、ムソルグスキー風、ドビュッシー風、バルトーク風、ガーシュウィン風、そして最後に商業音楽風という感じで時代の変化を感じられる変奏を次々に展開していきます。「対話」という副題を付けたのは、それぞれの変奏を聴いた人と、それぞれの作曲家が対話をするかのように聴いて欲しいという願いを込めた物です。
しかしこの変奏曲を作曲した人は本当によくやったなあと思います。だって、ただでさえ変奏曲って大変なのに、あまつさえそれぞれの作曲家の作風を入れ込まないといけいないのですから。聴いた人が直ぐに「これ、バッハじゃん」って分からないといけません。とはいえ変奏曲ですので、テーマを無視できないので、主題を巧みに取り込みながら、短い時間で楽しめる音楽にする。これは実に大変なことですね。本当にお疲れ様です。しかし本式の人たちはこういう遊びを嫌うんじゃないでしょうか?過去の作曲家へのリスペクトが強すぎるあまりに。私はむしろ逆で、せっかく過去の偉人たちが素晴らしい曲を作ってくれているのに、それを大勢の人が知らないで生涯を終えるのは実に勿体ない。だからちょっとでも知らない人に、過去の偉人の功績を知ってもらいたい、そういう想いでこの曲を作りました。ですから本式の方々、どうぞ寛容な心で受け止めて下さいませ。
この曲が今年の4月に実演の運びとなりまして、皆さんにも直接聞いて頂ける機会が出来ました。そのお知らせはまた後日致します。
というわけで、私の制作している楽曲は便宜上クラシック音楽と称しているだけに過ぎません。というお話でした。
つづく