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江戸時代と日本人の性格の相関関係について


はじめに

曖昧さを好む。真面目(勤勉)義理堅い。これら日本人を代表する性格は、江戸時代によって作られたといっても過言ではありません。今回は江戸時代と日本人のキャラクターの相関関係についてお話ししたいと思います。

曖昧さを好む日本人

日本語を学ぶ外国人が便利な言葉として真っ先に学ぶのは、「微妙」という単語だそうです。そう言っておけば、この国ではとりあえず場を持たせることが出来ますから。面白いですね。

日本人は何かにつけて白黒つけようとはしません。反対に諸外国は物事のケジメをハッキリとつけたがりますね。対する日本人は、敢えて物事を曖昧にしておく、グレーゾーンを設けておくことで他者との衝突を回避しようとする傾向があります。悪く言えば問題を先送りにするとも言えますね。財政健全化と言いながら、一方で国債を湯水のごとく刷りまくる。国民がこうした矛盾を何の疑問も無くすんなり受け入れているのも、曖昧さのなせる技だと思います。ではこうした便利な性格は、どうして形作られたのでしょうか?

妥協による幕府の成立

あの織田信長が仮に天下統一していたら、日本は明治を待たずして中央集権国家になっていたと思います。信長は敵対勢力を徹底的に排除する形で統一事業を進めていたからです。ところが、ご存じのように彼は中途で居なくなります。最終的に事業を引き継いだ家康は、年齢的にも経済的にも信長型の統一ビジョンは持てませんでした。ある程度大名たちの戦力を残した状態でしか統一することが出来なかったのです。大名の上に徳川将軍が乗っかっている「形」を取らざるを得なかったわけです。こうなると、地方分権的な要素が強くなります。しかし一方で将軍がいる。天下統一してみたものの、中央集権とも地方分権ともいえるような曖昧さが残ってしまいました。この状況に白黒つけることは、明治時代になるまで叶いませんでした。将軍も大名も、この点について明確に白黒つけようとはしませんでした。もしこの状態にケリをつけようとしたら、恐らく国内は再び大混乱に陥ったでしょう。ですから敢えてこの問題を曖昧なままにしておいたわけです。こうして江戸時代は妥協を伴う曖昧さの中に成立したのです。日本人にとって、曖昧さが大切な要素になったのは、こうした「微妙」な江戸時代の様相に起因していると思います。その意味で、徳川幕府が日本人にとって使い勝手の良い「曖昧さ」という概念を植え付けたと言って良いでしょう。

勤勉で律儀な日本人

大河ドラマ「光る君」ですっかりお馴染みとなった平安貴族。彼らは実によく仕事をサボりました。国家元首であるはずの天皇主催のレセプションなども、平気で欠席しました。それを罰する側もいい加減なもので、対策を取っても一向にラチが飽きません。現代の日本人からすると、到底信じられない情景ですが、まぎれもない事実です。

官僚に限らず、現代日本人の多くが規律正しく勤勉であるのは、日ごろは意識しないが、江戸時代以降に広く浸透したこの儒教的社会規範のおかげである。むろん、古代の日本には、まだそのような社会規範は存在していないのである。古代の日本では、律令官人たちは最初から規律立たしくもなく、勤勉でもなかったと考える方がむしろ理にかなっている

虎尾達哉「古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々」

虎尾教授(鹿児島大学法文学部)がもうはっきり言っちゃってますね。現代の日本人が規律正しく勤勉なのは、江戸時代の儒教教育の賜物なのです。儒教というのは簡単に言うと、「キングダム」でお馴染みの春秋戦国時代に活躍した孔子の教えを中心とした概念です。「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」といった考え方を学ぶものです。漢字を見ただけでそれぞれがどんな概念なのか、何となく想像出来ますね。これも儒教教育のお陰です。

江戸時代といえば、農民の子弟でさえも寺子屋で読み書きを習うことが出来ました。「子のたまわく」(孔子様はこうおっしゃいました)なんて、寺子屋で子供たちが唱和している風景を、誰もが時代劇で目にしたことがあるでしょう。まさにあれです。江戸時代は武士から庶民に至るまで、儒教が隅々まで浸透した時代でした。それは偏に儒教が人民統治に都合が良かったからです。特に「義・礼・忠・孝・悌」という概念は、将軍が大名を黙らせるにはうってつけでした。有名な話ですが、五代将軍徳川綱吉は、大の儒教かぶれ。江戸城内で連日のように、長時間にわたり儒学講義大名相手に行ったそうです。大名からすればいい迷惑です。あの有名な「生類憐みの令」も、綱吉が理想とする儒教思想を、国内で運用しようとした結果なのです。これもまた江戸庶民にとって迷惑千万な話です。いつの時代も、理想を突き詰めた政策は人民を徒に苦しめるだけですね。

戦国時代の「忠・義」の感覚

戦国時代の忠義の概念はかなりアバウトでした。あの織田信長でさえ、有名無名な大勢の人たちに裏切られています。信長でさえそうなのですから、他は推して知るべしですね。ですから謀叛を起こしても、当時は当たり前と思われていたフシがあります。斎藤道三は主君である土岐氏信長斯波氏放逐しています。室町将軍でさえ例外でなく、義輝は殺され義昭は信長によって京都を追われます。とにかく江戸時代ほど「忠義」がうるさく言われない時代でした。なのに光秀は例外的に悪く言われましたね。それは相手が信長だったからに過ぎません。インパクトが群を抜いていたのですね。

もちろん、戦国時代にも忠義の考え方がなかったわけではありません。ただ当時の日本人の骨の髄まで儒教が浸透していなかっただけです。貴族や僧侶のような知識階級、今川のように公家化した一部の大名などは儒教の存在を知っていたと思います。家康も幼少時代今川家の人質でしたから、太原雪斎などに儒教を学んでいたでしょう。でもその程度でしたから、戦国時代は主君とはいえ、いつ寝首をかかれるか分からない不安定な社会だったのです。ですから、忠臣蔵で有名な赤穂浪士たちも、江戸時代だったからこそ「忠義の士」になりえたのです。もし戦国時代にあのような事件を起こしても、恐らく後世まで語り継がれることはなかったでしょう。そもそも戦国時代では、あのようなことは起きなかったと思います。ですから、現代の感覚で戦国時代を考えるのはあまり適正とはいえないのです。

家康の性格の影響?

家康は同時代人には「律儀者」と思われていました。それは清州同盟異例の長さ継続したからに他なりません。戦国時代の同盟は文字通り“紙切れ一枚”の値打ちしかありません。名ばかりで終わることも決して珍しくありませんでした。しかし家康はこの同盟を徹底して順守し、織田家臣でもないのに粉骨砕身します。その姿を見た周囲の人たちがそう評したわけです。むろん、家康は生き残るために仕方なくやっていたことに過ぎません。それにしても、信長がわざわざ安土城で丹精込めた饗応を企画したくなるほど、家康の「律儀さ」堂に入ったものでした。例えそれが“演技”であったとしてもです。人間にとって大切なのは、本心であろうがなかろうが、他人に「どう見えるのか」です。家康が天下を取ることが出来たのは、当時の人々が彼が律儀な人間だと信頼を寄せていたこともあるでしょう。

江戸時代は260年近く存続しましたので、為政者個人の性格(みてくれの)がそのまま「国家の性格」影響を与えることもあったでしょう。中国北宋が異民族の侵攻を受けるまで大らかに繁栄を極めたのは、創業者である趙匡胤の性格によるものだったと思います。彼は何人もを惹きつける実に魅力的な人物でした。江戸幕府は北宋よりも長い260年にわたる長期政権です。それを思うと、開祖家康の人格がその後の日本に大きく影響したといえるかも知れませんね。

王朝の「賞味期限」を比較する

全くの余談になりますが、私の知っている主な王朝の「賞味期限」を探ってみましょう。私の言う賞味期限とは、とりあえず政権が国家を安定的に運営していたと判断できる「期間」のことを言います。試みに手元の歴史辞典を捲ってみます。

【前 漢】初代高祖即位から9代宣帝崩御まで(157年)
【後 漢】初代光武帝即位から3代章帝崩御まで(63年)
【唐】初代高祖即位から6代玄宗退位まで(138年)
【北 宋】初代太祖即位から8代微宗退位まで(165年)
【明】初代太祖即位から5代宣宗崩御まで(67年)
【清】初代太祖即位から6代高宗退位まで(179年)
【鎌倉幕府】初代頼朝即位から8代執権時宗死去まで(92年)
【室町幕府】初代尊氏即位から8代義政退位まで(135年)

これらの8つの王朝の平均賞味期限は約125年です。賞味期限切れの王朝は滅亡までの間、ほぼ惰性で運営されている状態です。反乱や戦乱などによって、民も国土も大いに疲弊します。それに比べて、江戸時代は、農民一揆は多発していますが、幕末の黒船来航までの間、政権をそれなりに運営していたと考えて差し支えないでしょう。そうしますと、家康即位から数えてなんと約250年の長きにわたって、幕府は政権安定的に維持していたと考えられます。何とその賞味期限は、諸王朝の賞味期限の約倍の長さになりますね。いかに江戸時代が世界史の中にあっても特異な時代であったかが分かります。

まとめ

徳川家康は戦乱の世を終わらせ、とりあえず日本人が戦で死なない世界を創ろうと奔走しました。こうして出来上がった江戸時代は、意外に長く続きました。一揆が多発するなど様々な問題を抱えていましたが、鎌倉や室町に比べると日本人にとって格段に住みやすい時代といえたのかも知れません。それだけに、現在の日本人の基本的な性格「副産物」として生まれたのかなと、私は思っています。

                              おしまい

(参考文献)
虎尾達哉著「古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々」(中公新書)
京大東洋史辞典編纂会編「新編東洋史辞典」(東京創元社)

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