
差し当たり光秀がやりたかったこととは?
謀反の理由はとりあえず置いておいて
光秀が本能寺の変を起こした理由については、いつか考えてみたいのですが、彼があの日本史上最も有名な出来事によって、差し当たりやりたかったことは何だったのか?それについて今回は考えてみたいと思います。
彼が謀叛によって最終的にどうしたかったのかは、色んな説が成り立ちますね。例えば室町幕府再興とか、天下統一などです。まあ、そういうのは最終的な目標だったかもしれません。でも、彼がとりあえず当面やりたかったことはそういう壮大な計画では無かったと私は思います。特に天下統一などという稀有壮大なビジョンは、正直信長親子を倒したくらいでは完成しません。ゲームとは違ってそんなに簡単なことではないのです。島津で松前を滅ぼすなどということは、現実的には不可能に近いのです。(理由は戦国時代の実態を説明した私のエッセーをご覧ください)
むしろ、信長を倒してしまったことで、やりにくくなってしまったのではないでしょうか?それまで光秀の協力者だった者たちが一斉に敵になるわけですから。しかもブラック企業並みのハードな信長軍団の長として名をはせた名将ばかりですので、彼らは厄介極まりない連中だと思います。そこに戦上手な家康も加えると、光秀にとっては結構しんどい天下統一事業になると思います。果たしてそういう難しいことを、光秀が謀叛の前に想定していたとは思えません。もっと単純なことを考えて行動に移したのだと、私は思っています。
差し当たり光秀が考えたこととは…
確かに光秀は、変の前日の六月一日。亀山城に明智秀満、明智光忠、藤田伝五、斎藤利三を集めてこう言ったと「信長公記」に記されています。
「信長を討って天下を取ろう」と。
そりゃそう言いますよね。これから謀叛するのに、
「まあ、とりあえずちょこっとやっちゃいます」
なんて言えないです。家臣に命を預けてもらうわけですから、大きく出ないと。しかし、それはあくまでも最終目標だったと思うんですね。
じゃあ、彼が当面やりたかったことは何なのか?現代に状況を置き換えて考えてみましょう。
本能寺で光秀がやったこととは?
光秀があの日、本能寺でやったことはズバリ「起業」です。明智株式会社を新しく設立したのです。彼のそれまでの肩書は「織田株式会社丹波支店支店長」でした。彼は本能寺の変を起こすことで、支店長という格下の身分から脱却し、企業の社長へと飛躍したのです。彼が差し当たって目指したのは、信長株式会社からフリーランスに転身することでした。
ご存じのように、信長は家臣たちに領地を宛がっていただけです。気に食わなければいつでも没収されます。また、彼は細かい性格でしたので、領地の運営に関してはあれこれ注文を付けます。例えば、佐久間信盛なんかにはこんな感じです。
「お前には結構デカい領地を預けているが、それに見合った武器も購入していないし、訓練もしていない。何やってるの?」
信長の頭の中には、この位の領地ならこの位の仕事をするはず、という勤務評定がありました。それに見合わないと支店長はクビになります。良くて追放、悪くて殺されます。光秀が仮に領内に善政を施そうとしても、信長から無理難題を吹っかけられたら、領民に重税を課しても課題をクリアしなければなりません。彼はそういう堅苦しい組織から脱して、フリーな身分で領国経営をやりたかったんですね。だから起業出来る状況(ドーナッツ化状態)になったから「起業」した、というわけです。
皆さんが今、IT系の会社を起こすと仮定してください。そんなあなたの夢は、末は孫さんか三木谷さん、あるいはもっと大きく出てイーロン・マスクさんになることかも知れません。しかし、実際最初に行うのは何か?そうですね、事業を軌道に乗せることですね。光秀だってそれは同じことです。いきなり夢を叶えようとは思っていません。彼は何を置いても足場固めをしないといけないのです。
光秀の困難
とりあえず彼は本能寺で起業したわけですが、それは初手からつまづきますね。本能寺の変で確かにメガカンパニーである織田株式会社の信長会長と信忠社長は居なくなりました。しかし、織田株式会社が潰れたわけではありません。いまだ組織解体されておらず、信雄&信孝という2人の有力な取締役が存命していますし、秀吉を始めとする優秀な専務たちも健在です。光秀はとりあえず自身の事業を軌道に乗せるべく、近畿圏内の大名や豪族を会社へヘッドハントしようと試みます。しかし京極高次や若狭の武田氏のような小粒な人々は求めに応じますが、細川や筒井といった役職クラスの大名には断られます。光秀は事業の足場固めに失敗したと言えそうです。
細川と筒井の行動を考える
まだ儒教理念が日本に等しく行きわたっていない当時、主君に忠誠を尽くすという概念は希薄でした。それをよく表しているのが筒井順慶の行動です。よく彼のことは「洞ヶ峠を決め込む」と揶揄されますね。筒井は光秀からの要請に応じる形で兵を出したかと思えば、他の情報に接すると引っ込めるという優柔不断な行動を取っていました。これは明らかに自分にとって有利な状況を、その都度判断して変えていたことが分かります。彼は実際に洞ヶ峠に布陣してはいませんが、彼の取った行動がそう評価されているということです。
因みに、光秀が彼や細川家を誘ったのは「与力大名」だったからです。与力大名とは、大名クラスの武将が軍事行動の際に命令系統下にあることを意味します。つまり信長の命令で軍事行動を起こす際、筒井や細川は光秀の指令を受けて行動することが、義務付けられていたのです。ですから光秀としては、筒井や細川は自身の号令があれば動いてくれる思っていたのですが、あくまでもそれは信長の命令があった時です。信長の命令でない以上、光秀の言うことを聞く必要は無いのです。この辺を光秀は取り違えてしまったんですね。極めて甘い観測と言わざるを得ません。この辺を見てみても、私は光秀は決して綿密な計画を練った挙句に変を起こしたのではないと思うのです。
本能寺では信長の首は出てきていません。首が無い以上、信長が生きている可能性があります。実際、彼は何度も死地を潜り抜けていますし、信長への恐怖が「もしかしたら」を連想させたでしょう。信長配下の武将たちのこうした微妙な心理を巧みに利用したのが秀吉ですね。彼は「上様は生きている」というフェイクニュースを流し、最大限に利用します。池田恒興や丹羽長秀といった重役クラスの武将たちと合流し、信孝を社長代理として光秀と一戦交えるわけです。
筒井と対象を成すのが有名な細川親子です。ご存じのように、彼らは光秀の縁戚です。当然、光秀としてはいの一番に彼らの参入を想定していたはずです。にもかかわらず、にべもなく拒否されますね。結果を知っている我々からすると「当たり前」の結果だと思いますが、あの当時、まだ儒教理念がさして確立されているわけでもなし、信長が死んでいるのか生きているのか判断に迷う時局にあって、彼らの行動は"掛け”に近い物がありますね。細川家としては光秀の親族であっただけに、判断に誤りがあればお家断絶になりかねません。しかし細川藤孝は早々に隠居し、息子に家督を譲るという選択をしました。筒井のように右往左往しなかったところは、流石細川藤孝だと思いますね。情報が何かと錯綜するあの時点で、さっと決断出来たのは、藤孝が並の人物ではなかったことを証明していると思います。もし秀吉の中国大返しが無ければ、下手をすると細川家は窮地に陥っていたでしょう。まあ、彼らにはガラシャという切り札がありますので、どうやったとしても生き残れたとは思いますけどね。恐らく、それを見越しての行動だったんだと思います。
光秀は決して「愚か者」ではない
光秀が本能寺の変自体を成功させたことは間違いありません。つまり起業には成功したわけです。本来は近畿地方で事業基盤を固め、並みいる猛者たちが所属する織田株式会社にタイマンを張る予定でした。誰が考えても、あの当時、織田株式会社の重役たちの配置を見たら、事業計画は上手く行くだろうと思うでしょう。柴田は上杉に張り付いているし、滝川は油断ならない北条への押さえとして関東に。丹羽や信孝は摂津にいるが、阿波の十河存保が気にかかる。(一般的に十河存保は織田方と言われていますが、反織田だったという研究もあります)秀吉はご存じのように、有利な戦いをしていたと言っても強敵毛利の目前にいる。秀吉が京都へ反転すれば、後ろを襲われる心配がある。光秀にとって格好の起業タイミングは、この時を置いて他には無かったでしょう。とりあえずしばらくは事業固めに時間が割ける。その後に名誉会長を置く(足利義昭推戴)のか、事業拡大(天下統一)を考える。光秀がそう考えても無理はないですね。
彼は信長の下で研鑽を積み、誰よりも信頼され重宝された武将です。京都御馬揃えや安土での家康饗応の職務は、決して光秀が低く評価されていたから命じられたわけではありません。逆に信長が誰よりも信頼していたからこそ、失敗の許されない重要な職責を果たせる人物として光秀に白羽の矢を立てたのです。馬揃えはイベント好きな信長にとって、天皇も臨席する重要な軍事パレードでした。家康の饗応も、長年の家康の忠節に対して、信長が心から感謝している証を示すための重要なイベントでした。それを信用に足らない武将に任せるでしょうか?巷間言われているような、懲罰的な意味合いで光秀に任されたのではありません。むしろ積極的な意味で光秀が起用されたのです。
中途採用であったにも関わらず、柴田勝家のような古参の重役を押しのけて、一番早く城持ち(部長クラス?)になったのは光秀でしたね。そんな有能な光秀が、失敗してしまう。もはやそれは想定外の事態なのです。普通であれば光秀は近畿で覇を唱える有力大名になっていた可能性が高いと思います。あの当時、誰も秀吉があのような快挙を成し遂げるとは思ってもいません。恐らく秀吉本人も思っていなかったでしょう。秀吉の偉いところは、ダメだと思わずに、先ずやってみようと思ったところでしょうね。家臣たちは毛利との関係性に不安を覚えたことでしょう。しかし秀吉はお構いなく光秀討伐を模索します。自分の活路は毛利と対峙することではなく、必秀を倒すことだと瞬時に判断したのでしょう。モタモタシテいたら挟み撃ちになりますね。秀吉は毛利との和睦交渉(元々毛利から和睦を提案されていたか)を行い、毛利が反転しないと知るや怒涛の勢いで姫路へ向かいますね。その後は皆さん、ご存じのとおりです。
天下統一は「夢物語」?
起業に成功しても、起業家が想定したように会社が育たないことは往々にしてありますね。天災もある、人災もある。約束していた銀行の融資を受けられない。想定外の事態など人間社会にはゴロゴロ転がっています。光秀の起業も決して無謀な物ではありませんでした。ただ残念なことに、彼の会社はごく短い間に倒産してしまいました。それは全く想定外だったのです。結果を知っている私たちの目から見ると、光秀は何と愚かなことをやったのか、と思ってしまいますが、当時の人間心理や状況の変化で光秀が群雄割拠の一翼を担うことも出来たはずです。信長の登場以前は、群雄割拠が当たり前でした。ですから天下統一などという発想自体が「異常」なのです。光秀はただ、信長株式会社から独立して、法人を立ち上げたかったに過ぎません。その先のことは、会社が上手く回るようになってから考えようと思っていたのです。繰り返しになりますが、戦国時代は群雄割拠が当たり前と認識されていました。
光秀はつまり、当面はその群雄の一人を目指したということです。
おしまい