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物語に描かれる異端者のまなざし│物語化する/される私たち #4

 私たちは世界を理解しようとするとき、ストーリーという枠組みを用いる。それは他者理解においても同様だ。その枠組みから外れてしまった人々は、異端とみなされる。

 今回の記事では、村田沙耶香『コンビニ人間』を中心に、カミュ『異邦人』、春日武彦『自殺帳』、今村夏子『こちらあみ子』『むらさきのスカートの女』、兼本浩祐 『普通という異常 健常発達という病』などの著作を取り上げ、異端とされた人々のまなざしに迫っていく。
 著作の内容に深く触れますので、未読の方はネタバレにご注意ください。


(この記事は、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』を下敷きにしたマガジン「物語化する/される私たち」の第四回目です。(全4回))

物語に描かれる異端者のまなざし

「太陽のせい」で人を殺した カミュ『異邦人』 

「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺したことで告発されたのでしょうか?」傍聴人は笑い出した。

アルベール・カミュ『異邦人』p123、新潮社 より引用

 異端者を描いた小説は数あれど、カミュの『異邦人』はその代表格と言えるだろう。

 『異邦人』において、主人公のムルソーは母の死の際に涙も流さず、人を殺し、動機について「太陽のせい」と答える。裁判の際、ムルソーは検事に激しく糾弾される。

「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑い転げたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません。」あいかわらずの沈黙のさなかに、検事は腰をおろした。と、突然、マリイは声をあげて泣き出した。それはほんとうではないのだ、別のこともあった、自分が考えていたこととは反対のことをいわされてしまったのだ、自分はあの人のことをよく知っている、あのひとは何も悪いことをしてはいないのだ、といった

アルベール・カミュ『異邦人』p120、新潮社 より引用

  社会が求める「ストーリー」は、母親の死に際し涙を流す人であり、殺人に対して明確な理由があり行為を悔いる人だ。トラウマティックな過去があれば、同情さえするかもしれない。

 けれど、母の死に表面的にも悲しそうなそぶりを見せず、訳のわからない理由で人を殺すムルソーを、人々はひどく不気味に思い、彼を否定し、糾弾する。

人は世界を理解しようとするとき、ストーリー形式に依存してしまう。そして法に代表される社会制度もまた、その形式を採用せざるを得ない。こういった人間学的傾向を人は普段ほとんど意識しません。『異邦人』第二部で主人公は、その傾向に抵抗します。その抵抗に対して、作中の「善良な市民」たちは反感と苛立ちを露わにします。このとき、それまで自覚していなかった前記の人間学的な事実が可視化してしまうのです。

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』ちくまプリマー新書、p138より引用

 社会がムルソーを受け入れないのは、彼の行動が理解できないからだ。もっといえば、自身の世界を理解する枠組み(ストーリー)から著しく外れているからだ。母の死の翌日に女と遊び呆けるなど、理解できない。「太陽のせい」と人を殺すなど、意味不明だ。しかし、行為そのものでなく、それをもって彼の行為が罪とみされるのは、あまりに不合理ではないか。

「現代の社会において、母親の葬式で涙を流さない人間は、死刑を求刑されるおそれがある」とカミュはいう。 
ムルソーは、母親の葬式で泣かなかった罪、すなわち「社会が要求する演技を演ずることを拒んだ」罪で死罪に問われる。社会が裁いているのは、被告の行為ではなく、彼のあり方なのである。
「無動機の殺人」という不可解な設定は、ムルソーのあり方を社会の審判にさらす口実に他ならない。アラブ人殺害にまつわる一連の経緯は、偶然の重なった不幸な事故であったか、太陽に象徴される運命の所業であり、ムルソーの無垢性は殺人によって少しも損なわれないように書かれている。

アルベール・カミュの『異邦人』における偽りの告白
東浦弘樹 著 · 1984 より引用 

 作中でムルソーの弁護人は「要するに、彼は母親を埋葬したことで告発されたのでしょうか、それとも一人の男を殺したことで告発されたのでしょうか?」と述べる。 

 この弁護人の問い(というか反駁)は、ムルソーの「社会が裁いているのは、被告の行為ではなく、彼のあり方」であるということを端的に表している。

そしてまた、特筆すべきはムルソーの無垢性である。 自分の身がかかっている裁判で、「太陽のせい」という身も蓋もない彼にとっての真実を述べることは、「嘘をつく能力を持ったふつうの大人(※のちに取り上げる)」であれば考え難い。普通なら刑を軽くするために何かしらの説得力のある理由をひねり出しそうなものだ。けれどムルソーはそれをしない。

 共感能力や嘘を付く能力といったものが生まれつき備わっているわけでなく、経験をもって体得していくものだとすると、子どもというのは無垢の象徴と言える。
 彼はまるで、情緒を育てる前の無垢な子どものようにも思えた。そしてその無垢さが彼に引き金を引かせ、彼を死刑台へと送ったとも言える。

 死に際したムルソーはこう振り返る。「何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。」と。そして、彼は処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びを上げて迎えてくれることだけを望む。

 彼は彼なりのあり方で世界を捉え、対峙していた。しかし、彼の人並み外れた無垢さをもって、真理を歪めることは決してしなかった。それこそがムルソーから異端とされ、糾弾された理由であり、彼の存在と、彼に対する周りの人々の対応が社会そのものの不合理さを炙り出している。

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余談となるが、異邦人において殺害されたアラブ人に焦点を当てた本もあり
物語の中で、単なる被害者Aとなった彼の匿名性や扱われ方にも再考の余地があるだろう。

『もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査』、カメル・ダーウド作、鵜戸聡訳、水声社刊、2019年

ダーウドの作品の主人公は、ムルソーに殺された「アラブ人」の弟、ハールーンHarounです。弟は殺された兄の名はムーサーMoussaであったのに、『異邦人』中で一度も名で呼ばれることが無く、ただ「アラブ人」と呼ばれ、一切の説明もされず、ほぼ人間として扱われなかったことに憤り、その死の真相についての再捜査を試みる。

村田沙耶香『コンビニ人間』

普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。でもね、僕を追い出したら、ますますみんなはあなたを裁く。だからあなたは僕を飼い続けるしかないんだ」白羽さんは薄く笑った。

 p115「コンビニ人間」村田沙耶香著 文芸春秋

 村田沙耶香「コンビニ人間」の主人公の恵子は、人に共感され難い人物として描かれる。

 たとえば、公園で死んでいた小鳥を食べようとする。暴れる男子を止めようとスコップで殴って止めようとする。先程のムルソーの例で出た「無垢な子ども」が存在するとしたら、主人公の恵子の少女時代に近しいかもしれない。彼女の行動には、偽りがない。しかし根本的なところで「普通の人」とズレがあるので、あらゆる場面で齟齬が起きる。

 ただコンビニ人間の恵子は先程のムルソーほど達観した捉え方をしているわけではなく、正解がわからないながらも、まだ他の人間となんとかうまくやっていこう、という意思や葛藤があるように見える。自身の性質で家族が困っていることもあり、できるだけ場に馴染んでいられるようにしているのだ。

 皆、私が苦しんでいるという前提に話をどんどん進めている。たとえ本当にそうだとしても、皆んなが言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとしない。そのほうが自分たちにわかりやすいからそういうことにしたい、と言われている気がした。
 子供の頃スコップで男子生徒を殴ったときも、「きっと家に問題があるんだ」と根拠のない憶測で家族を責める大人ばかりだった。私が虐待児だとしたら理由が理解できて安心するから、そうに違いない、さっさとそれを認めろ、と言わんばかりだった。
迷惑だなぁ。なんでそんなに安心したいんだろうと思いながら、

村田沙耶香『コンビニ人間』文藝春秋 p37

 誰にでも理解可能なストーリーがないと、私たちは困惑し、不安になる。他人の存在は謎そのものなので、他者を判断するための拠り所とするために、私たちの世の中は見えない不文律で埋め尽くされている。

 身体が弱いのにコンビニバイトをし続けるのはなぜか。結婚しないのはなぜか。
 納得できる理由がない限り、彼らは異物として排除される。異端者とみなされると、コミュニティの内部には決して入れてもらえず、表面上は受け入れてもらえたとしても、本当の意味では仲間になれない。

今村夏子『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』

 異端者のまなざしを描いた作家として、今村夏子の作品にも少し触れておきたい。

 『こちらあみ子』は、風変わりなあみ子の生き様が描かれた作品だ。コンビニ人間のように、異端とされる人の視点から描かれているが、コンビニ人間の主人公よりも「自身が異端である」という認識が薄く、それゆえ行動や言動もよりストレートだ。その無垢さがある種の魅力として描かれている点は、『異邦人』とも通ずるところがある。

 チョコクッキーの外側のチョコを舐め取って好きな人に渡すという信じがたい行動を読むと、思わず気持ち悪いと思うし、他者への理解を著しく欠いた行動によってやがてあみ子はその反動を食らうわけだが、それはあみ子の無垢さの結実でもある。同時に、あみ子の純粋で無垢な気持ち、愛と呼ばれるものが、いかに他者にとって不快でおぞましいものなのかという、その決して交わることのできない切なさも示されている。
(同単行本に収録された「ピクニック」も、他者の底知れなさを描いていて面白い)

 また、同著書「むらさきのスカートの女」では、小説における描写表現の特異性を逆手に取った書き方がなされている。
 異端者であるむらさきのスカートの女を眺める傍観者であった語り手と読者だが、物語の「異端」と「普通」をひっくり返してしまうことで、語り手と読者を異端の側へ引きずり込んでしまうのだ。

 今村夏子作品に特徴的なのが「信頼できない語り手」の使い方だが、彼女の作品に通底する不穏さが、そのまま他者の存在の不気味さ、理解しがたさに通じているような気がする。

異端とは何か 

兼本浩祐『普通という異常』

 ここまで異端者のまなざしが描かれた作品を見てきたが、では「普通」とされる人々はどうだろうか。異邦人を取り上げた際に、「嘘をつく能力を持ったふつうの大人」 と書いたが、果たしてその普通の人というのも、ある視点からみれば異常と言えるかもしれない。

兼本浩祐著『普通という異常 健常発達という病』では、いわゆる健常者、健常発達者と呼ばれる人々の人々と、発達障害を持つ人々、その周縁について語られる。
著書の中で、アメリカの自閉症協会が健常発達を「ニューロティピカル症候群」と定義した症例(?)が取り上げられていた。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。
・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。
・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。
・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。
・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます

アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義
自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」 より引用

 時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます、というのは先に取り上げたムルソーの無垢さと対照的でもある。

また、『コンビニ人間』の恵子や『こちらあみ子』のあみ子の行動や言動と照らし合わせてみても、色々と見えてくるものがある。

何が正常で何が異常かも、見方によって異なる。
自分と異なる方法で世界を知覚している人々の思考を覗き見ることで、自分の知覚を相対的に捉えることができるのではないか。その手がかりとなりそうな著作はたくさんある。

池上英子『自閉症という知性』は、自閉症当事者の豊かな内面世界が綴られているし、伊藤亜紗『目に見えない人は世界をどう見ているのか』では視覚だけでないものの見方の多様さに驚く。

最近刊行された柴崎友香『あらゆることは今起こる』は、ADHDとASDの当事者で小説家である著者が日常を綴ったもので、話の脱線や余談の多い構成そのものが著者の思考の巡らせ方を表しているようでまるで脳の中を覗き込んでいるような感覚になる。

著書の中で「自分がなんで他の人ではなくこの体に入っていて、今ここにいるのかと…(中略)自分がここに存在している事自体が夢みたいなものなんかじゃないかと感じること」と言う表現には、自分が自分であることの不思議、を端的に表している。

自分も、脳内多動気味で同時並行的に物事をこなしたり、あっちこっちと思考が飛んだりするので、その部分には身近な共感を覚えたし、そうでないところにはこんなふうに世界を捉える人もいるのか、と感銘を受けた。

他者のまなざしを知ろうとすると、そもそも普通|異常の境界線も曖昧であることに気づく。
人の感覚を、認識を、絶対経験できないからこそ知りたいという著者の考えには深く共感する。だから私たちは本を読んだり表現したりするのではないかとさえ思う。

春日武彦『自殺帳』

  『自殺帳』は、精神科医であった著者が、様々な自殺の事例や自身が診てきた患者をとりあげ、人が自殺に至る過程を分析、分類したものである。

 自殺に至る人の動機や過程を面白がっているようで不謹慎に思われるかもしれないが、あえて自分の身を著者は自殺者と同じ狂気の側に立ち、そこから見える景色を覗こうとしているのではないだろうか。

 著作の中で取り上げられる「石鹸体験」は些細な出来事の積み重ねで死にたくなる感覚が描かれている。石鹸が手から滑って死にたくなる、というのは、ムルソーの、太陽のせいで人を殺す、という一見突拍子もない飛躍と似通ってはいないだろうか。

 自殺者と今生きる私たちは異なる彼岸にいるように思えるけれども実はそうではない。だとしたら、自死を選ぶ人とそうでない人との違いはなんなのか。いくら分析しても語り尽くすことはできないが、自殺を単に精神病の末路として片付けてしまうより、人間のありようをより近しい形で捉えることができるのではないか。

 本書の終わりで著者は精神科医を辞めた理由を述べ、その心境をこう綴っている。

もしかすると誰かがそっと自殺を決意し、その心づもりは秘密にしたまま実行までにはまだ日があるとしたら、その人物にとって眼前の空気はいつしか透明度を増して冴え渡り、世の中は惰性や先入観や倦怠感から解き放たれて何もかもが本来の存在感を取り戻し、今までは意味があると信じていたあれこれの無意味さがありありと立ち上がり、同時に無意味と思っていたもののささやかな価値に気づくのではないか。
すべてが無垢に立ち返って露わとなり、当人の感覚は研ぎ澄まされるのではないか。
そしてそれは今私が感じている気分とかなり酷似しているのではないだろうか、と。もちろんそれは当方の勝手な思い入れかもしれない。証明することもできない。でも、あきらかに通底しているという確信がある。

春日武彦『自殺帳』おわりに より

 狂気とは、何が決めるのだろうか。人を殺したら狂人か、自殺したら狂人か。
狂気との距離、あるいは絶望との距離は、私たちが思っているよりかけ離れたものではないのかもしれない。

他者という存在そのものの「異端さ」


少し話は逸れるが、先日、パレスチナでのジェノサイドに抗議するため、家の近くの駅前で行われたスタンディングにはじめて参加したときのこと。

 心に残ったのは、通りを行く人々の表情だった。大きなプラカードを掲げて、声をあげているので気づいてはいるだろうが、見えないふりをする人々。視線はこちらに送ってくれる人。興味を持ってフライヤーなどを受け取ってくれる人。

 中でも印象に残ったのは、足早に通り過ぎる人の中に見られる、すこし怯えたような表情だった。平和的なスタンディングにも関わらず、そうした表情が見られるのは自分としては意外だった。通り過ぎる人々を非難するつもりはない。ただ、何か腑に落ちるような感覚があった。

 私は「恐れ」というものが「こちら側」と「あちら側」を分ける境界を濃くしているのではないかと感じた。
理解できないものは、怖い。だから、攻撃したり、糾弾したり、排斥したり、遠ざけたりする。あるいは、自分の言語や文化や思想と同化させようとする。
これは個人だけの問題でなく、国や社会などもっと大きな単位でも言えることだと思う。

『異邦人』『こちらあみ子』『コンビニ人間』などの主人公に共通するのは、人並み外れた無垢さと、その無垢さゆえの考えや行為に対して私たちが抱いてしまう恐れに似た不気味さ、である。
 異端とされる人にだけ私たちは不気味さを感じるのではない。自分と異なる主体を持った他者の存在そのものが、不気味で不可解でグロテスクなのだ。

 この世に生きる生き物全てが、自分とは異なるあり方で世界を認識している。これまであげたのはその顕著な例である。その当たり前の驚嘆すべき事実はしばしば忘れられてしまう。

先の記事で、陰謀論が蔓延るのは私たちが世界の複雑さに耐えられないからだ、というようなことを書いた。
他者に対しても同じことで、一人ひとりの複雑さをそのまま受容できるくらいに、強靭でしなやかな考えを持つことはとても難しい。

ストーリーに依存しない、人の個別性や異端性そのものと対峙するということは、個人の剥き出しの不気味さや、世界の理不尽や不安定性に直面するということでもある。理不尽極まりない多様な世界をそのままそのまま受け入れるのは精神的にも負荷がかかる。

異端者を排除、あるいは同化させることは、身を守るための防衛本能でもあるかもしれないし、コミュニティの安定に繋がったりする側面もあるのだろう。

しかし、理想論かもしれないが、世界が自分の理解しがたい変わった思想や人やもので溢れているというのは、本当はとても素晴らしいことなのだと思う。たとえ自分が不快に思ったとしても、不快なものが排除されず存在していることにこそ豊かさがある。自分が快を感じる人や物や思想しか存在しない世界を存在してみてほしい。それは理想郷とはかけ離れている。

 私たちは他者とほんとうの意味で共感し合うことができないことを薄々気づいていて、だからこそ、ちいさな共感や不文律を必要以上に大切にしてしまうのかもしれない。

私たちは決して分かり合えないということだけを、分かり合うことができる。
私たちは程度の差こそあれ皆異端者であり、他者と交流するということは、異なる銀河にいる者同士が交信するくらいに、信じがたい奇跡の連続である。


前回の記事はこちら↑

「物語化する/される私たち」の全四回マガジンは今回でまとめとなります。
今回は、ストーリーから少し飛躍して、異端者の眼差しから様々な著作を引用しつつ考えてみました。最初に構想していた書きたかったことから随分と膨らんでしまいました(いつものことです)

人生や他者を類型化しストーリー化してしまうことは、私たちがしばしば陥ってしまう考え方で、もちろんそれが一概に悪いこととはいえないのだけれど、そうしていては、目の前の物事の本来の姿を見誤り、単純化された世界の中を生きてしまうのではないかという危惧があります。
ただ今という瞬間に、目の前にいる人、その瞳の奥を覗き込んで初めて、世界は自分に心を開いてくれるのではないかと思えます。

気が滅入るようなことばかり起こる世界ですが、だからこそ、世界への誠実さを見失わないようにしたいと強く思うのです。


1年以上更新していないにもかかわらず、過去の記事を読んでくださったり、いいね♡してくださったり、フォローしてくださった皆さん、ありがとうございます。励みになります。
仕事の合間を見ての更新で、今後も亀のペースではありますが気が向いた時に記事をかけたらと思います。

長い文章を最後まで読んでくださりありがとうございました。


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