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まっすぐな目

これを読んだ人は、例えば、まっすぐで分かりやすいものに憧れたりはしないだろうか。
分かりやすいだけじゃなく、「まっすぐ」。

大好き!とか、俺の答え!とか、これはこう!とか。
複雑さがなくて、純粋で、それでいてすっからかんじゃなくて、単純だけど、沢山の気持ちが詰まっているような感じ。
言葉でも、絵でも歌でも、同じようなことがあると思う。ほんとに美味しいおにぎりの味みたいな。
僕はそんな人だ。

 
真剣に生きすぎている。不必要なほどの誠実さと率直さは、裏目に出ると嘘がつけないモラハラ野郎だ。
辛うじて社会に溶け込んでいるだけで、本質的には社会性のないワンマン人間だ。
自閉症の「固執する性質」は、時々「常識」とかいうものを越えたところに規範を置く。

僕は、僕のルールさえ守っていれば生きていられるし、僕のルールを守れなくなったら生きていられない。
けど、僕のルールを守るだけでは社会を過ごしてはいけない。


とはいえ、僕は学校や社会のルールを沢山無視して生き続けてしまっていた。今では

礼儀や礼節を重んじる人たちの機嫌を損ねてしまった場合対して有効な行動を取ることが難しい。


些細な礼節…グラスを下に向けるとか、お詫びに相手方のもとへ出向いて挨拶をするとか、アポイントの取り方とか、話し方とか、
サラリーマンが覚えるような感じのマナーは割りと疎い。

開き直ってるわけではないのだけど、
長いこと自分自身と付き合っていて、出来ないこととやらないことの分別くらいは判断できる。
これは僕にとって出来ないことだ。一生この課題と付き合うことになるだろう。


相手がどんなに形だけの謝罪を求めても、僕が誠意を込められなければ形骸化した言葉とお辞儀。
その行為で向こうが納得するとしても、
相手が大事な人であるほど、大事な人を相手に形だけの礼を尽くすことは脳が許さない。
意味がないとか、非合理的とか、そういうやり方も、納得できないからできない。
僕は、僕の培ってきた社会的な価値観で礼儀を表現した。
それが批判される時もある。
ところで

社会規範で他人をはかるやつ全員バカじゃないの?


礼儀がなってないとかどうとかで、それが人格を表し云々はわかるんだけど、
礼儀作法できてる側が一方的に偉いのはワンサイドゲームだろ。
僕は僕の培った常識の中で最大の礼儀を尽くしていて、
つたわらなかったなら他に何か提示するとか、納得するやり方を教えてくれよ。
「社会的にわかるでしょ?」「一般常識的には」じゃねえんだよ。なんのための口と頭だよ。コミュニケーション取ってくれよ。
何求めてるかわかんねえよ。
あんたらと僕は猿と魚くらい常識が違うの。
もうちょっと俺の気持ち汲んでよ、僕はそっちの求めるもの汲みたいんだから。なんか言えコラ。


社会常識を獲得できないほど、僕は真っ直ぐすぎる選択を続けてきたんだろうな。
けど、その結果で今の大事なものたちが沢山あって、
僕は今回もきっと真っ直ぐすぎる行動を取るだろう。
まっすぐな目で、「金輪際私と直接の対面と意志疎通をご遠慮くださいますよう」というだろう。

学んでる側が知らない側にマウントを取るための土壌では頭なんか下がらない。
礼節を本当に理解する人は、大体それを押し付けに来ないものだ。相手を知ろうとする事から始まるんだ。
いつでも知ろうとすることから芽が伸びるんだ。

かくして僕は

相手が相手の礼節一方を尊重する場合、

僕は僕の礼節しか重んじない


というルールを設けることにした。
他人と足並みを揃えるのも大事だけど、申し訳ないけど僕はそれ以外の方向性で社会に貢献したい。悪いけど君とは仲良くできそうにない。
住みわけよう。
願わくば、僕の見えない場所でどうかどうか豊かに幸せに暮らしてください。僕のことなど思い出す日も二度と来ないくらいに。


僕は真っ直ぐにしかなれなかった。
なのに、きっと真っ直ぐに育てられたのは向こうだ。
真っ直ぐな愛情や思いやりに囲まれて育ったから、まっすぐな愛情や思いやりに慣れていて、当たり前で、同じ感覚を他人が理解できると信じていた。彼らはそれで幸せだろうか。

僕は真っ直ぐでなきゃならなかったのに、
彼らは真っ直ぐに育つことを応援されていたように見えて、悔しい。

『両親がいて、喧嘩とかして、ご飯食べたりお茶したりして、家族でお互いの粗相を許しあったりしてるくせに、人間関係をわかったように礼儀を説きやがって。』
『形さえ守れば良かったお前らは良いよな。
バカの猿覚えみてえに頭下げてりゃ問題が済む世界で暮らしてきたんだろうから。

礼儀でなんとかなる世界はほんとに過ごしやすいだろうな。暖かくてピースフルで。
お前らの基準で問題が解決するなら戦争なんか起こらねえよ馬鹿が。』
『他人に説いて押し付けれるくらい自信満々の社会規範が身に付いていらっしゃるなんてとっても素敵ですね。もっと教える価値がある人に教えてあげてください。』

そんなことを考える。

冒頭にもどる。

真っ直ぐなものが好きだ。僕がどうしようもないやつだから。
明快で、シンプルで、沢山の想いが詰まっているものをみた時、仲間を見つけた時のような優しい気持ちになる。

僕が真っ直ぐに生きていくのは、自分がそうされたかったからだと思う。
普通とか節度とか、そういうのを持ち込まずに、僕はただ単純に愛を受け取りたかった。

推理と曲解の果てに解釈してようやく得られる、カラカラの喉で受け取る数滴しかない水のような愛ではなくて。
大好き!とただ言われて、普通ではない"僕"を、もっと多くの人に大事にしてほしかった。
もう、親戚も親も、血の繋がりの希少さ以上の価値をそんなに多く見い出せない。

人間は、自分が理解できる世界の中でだけ生きていける。
だから、理解しやすくあるために、共通言語や常識がいる。
けど、それは各々の持つ世渡りの補助輪にすぎなくて、結局個人個人の間には自転車では越えられない段差がある。
それを知ってるか知ってないかで、礼儀の価値は変わってくると僕は思う。



真っ直ぐに、明日も生きるだろう。
誰かを愛したり、愛されたりするために。

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