桜とか咲かないくせに 通学路ぶった道をゆく 阿弥陀クジ 2学期の話 席替えはきっと君のとなり 愛したものは失くならない 映画で知った一種の悟り 阿弥陀クジ 広くても同じ 教室じゃなくなっても隣
これを読んだ人は、例えば、まっすぐで分かりやすいものに憧れたりはしないだろうか。 分かりやすいだけじゃなく、「まっすぐ」。 大好き!とか、俺の答え!とか、これはこう!とか。 複雑さがなくて、純粋で、それでいてすっからかんじゃなくて、単純だけど、沢山の気持ちが詰まっているような感じ。 言葉でも、絵でも歌でも、同じようなことがあると思う。ほんとに美味しいおにぎりの味みたいな。 僕はそんな人だ。 真剣に生きすぎている。不必要なほどの誠実さと率直さは、裏目に出ると嘘がつけない
もうずいぶん長く湯船に浸かっていない。 自営業となり、相方であった人間が経営から離脱してからの僕は少々…恐らく非現実的な過労気味だ。17時間の仕事、2~3時間の睡眠、3時間ほどの休憩。そんなスケジュールをもう何ヵ月しただろうか。 たまに温泉なんか行くんだが、それも閉店前に行くからあんまりゆっくりできない。 引っ越したマンションはいまだにガス電気を契約していないため、自然光の照明と水浴びがお風呂だ。髪も伸ばしっぱなしで、余計真剣に衛生管理を神経質にさせられる。 ミュージシャ
また、頼りかたを間違えて他人を困らせる。 自分の人間性に時々失望する。 人として失ってはいけない境界線を失いそうになる日が、ある。 仕事の心労を和らげるために友達の力を借りたくて、励ましの言葉をもらうために何を血迷ってか大喜利形式で励まさせてしまった。 無茶苦茶だぞお前。 未だにわからない他人との関わりかた。 何を分かち合いどう生きるか 人の輪は歪だ 混ざらずに孤立した 小中高、大人。 社会人になって未だ笑顔に裏 幸せにはほの暗さが影みたいに付き添い 夜も深く眠れないで適
遠くを見なくなった 興味がなくなったのはいつからだろうか 目も身体も昔はよかった 現実に手も足も届いた 遠くに興味がなくなった 大人になるってこれの事か 映画より早く過ぎ去った 時間に足跡を探して縋った
休んでいるとサボっているような気持ちになることがある。 それでも真剣に何かを続けるためにこそ能動的に時間をとって、質を良く休むことが大切だ。 先日僕が応援としてあるお店で働いていたところ、ここまでの出自や僅かな経歴を話しながら自分がいかに馬車馬労働に慣れていたのかを実感する。働き者だったのは、単に誠実で度を越して真面目だからだけではなかったのかもしれない。 自分の身にはずっと、自分史上最悪の時代の感覚がまだ残っている。その浄化を願って今回この記事を書く。 小さい頃、親戚
吸った空気は、気道の在処と肺の大きさを身体の持ち主に伝えながら、胸に大きく広がってから四肢へと溶けた。 寒いせいだろう。しかし空調は付けなかった。料理をすると暑くなるから嫌だった。 こんな寒い日は今まで何度も迎えてきたけど、今回は違った。 導かれるように自分の店を持つことになり、導かれるように愛する土地に行き、導かれるように神様に会って、そして話した。 神様と呼ぶ人の日本画は、そこに在るだけで僕を立ち止まらせた。 そこに「何故」も「理由」も無く、無意識のようにただ立ち止まる
文を書くくらいしかすることがない。 例えるなら、空っぽのグラスに泥を纏った砂利が、コーティングを傷つけたり汚したりしながらずけずけと注がれて、あまつさえ居座っている。心がどうも悪い。いよいよたまらずパフェを食べに来た。 スマホをさわりすぎて指が疲労し始めてしばらくたっているのにも関わらず、ここにきてカフェの待ち時間で文章をスマホで打ち込もうという身体に対する愚行の極み。右手は一番親しみ深い商売道具だからなるべく癒してあげたいのに、こうやって一銭にもならない仕事をさせてしまう
夏の「死を感じる」空気、 終戦とお盆由来のものだと思ってたけど、陽炎や蝉時雨がもたらす幽玄さや異様さが生の向こう側を想像させるのかもしれない。 ラジオで臨死体験の話をしている。部屋にはやかましい洗濯機の轟音と森本レオみたいな男の声、森の側に立つこのアパートでさえ雨上がりの明朝は蝉も鈴虫も鳴いておらず、話題は次へ移る。 朝イチから揚げ物なんて食うんじゃなかった。 余りリゾットで作ったアランチーニを四つ、一人前にして丁度よい量だが朝イチは間違えた。 中々に気だるい。 この異常
一度でも『生きることに理由なんてない』とおもってしまったら、 一刻も早く人生の抜け道を探さなければ、その人は"意義"や"理由"といったものに取り憑かれて死んでしまいそうだ。まるで都市伝説の怪異のような。 友人からくる明日の予定についてのグループ連絡を完全に無視している。 返信する気にならない。 8月の夜は決まって心の調子が悪い。 鈴虫やなんやらの声がして、 冷蔵庫や家電の電子音が気になり出して、 自分の咳払いや足音、部屋のすみの電気の当たらない暗さ。 そういうものに、心に
お風呂上がりに、山を背に構える住宅街の夜道を歩くと色んな発見がある。 それは新しい発見かもしれないし、いつのまにか擦れて見失っていた世界の再発見かもしれない。どっちだっていい。僕にとっては楽しいのだから。 素直であることは最低だ。時に誰かを傷つけるし、素直さで傷つけた時は、嘘で傷つけたときより罪悪感が著しい。 カッコつけてる時の言葉で人を傷つけても、カッコつけた自分が良い言い訳を用意する。 「自分は○○な奴だから」みたいな保険も、それ自体が言い訳や、罪悪感の防壁になる。
人生の価値一覧 ・会いたい人の数 ・好きなものの数 ・歌える曲の数 ・好きな人の好きなところの数 ・一人でいる時間の量 ・読みたい本の数 ・弾ける曲の数 ・歌いたい歌がある ・忘れたくない人の数 ・心の傷の数 ・もう会いたくない人の数 ・食べたいお菓子 ・行きたい場所の数 ・飲み込んだ言葉の数 ・思い付かない出来事の数
吸血鬼を二郎系に連れていけばしぬ。 にんにくは太古より魔除けに用いられてきたもので、遠い未来、二郎系店舗はドラキュラの軍勢の敵意を真っ先に買い、見事返り討ちにするだろう。 もつ鍋の匂いで気が狂うため、吸血鬼は博多に住めない。 イタリアもアーリオオーリオは即死呪文だ。 ペペロンチーノのペペロンは「撃滅」、 チーノは「魔物」という意味だ。 「ボナペティート」と言うのは神への祈りを表していて、昔の聖職者が魔を払い除けるため自らを鼓舞する際に唱えられる呪文が由来になっているらしい。こ
今読んでいる本に「だからさ、そこがママの問題なんだよ。形容詞をうまく使いこなせる力がないと、感じ方がわからない。」という一節がある。 感じ方…."そう感じた"、という感受性があっての言語化ではなく、 形容詞….言語と世界の結びつき をいくら持っているかで、感じ方が変わってくるという考え方なのかしら。 確かにそうだ。 「虎柄」は「虎」を知らなければイメージできない。 「コーヒー」をのんだことがない人にコーヒーをいくら説明しても、のんだことがない人には、コーヒーを好んでのむ人の
大人になれば社内外に気軽に話せる友人がいて、 週末は飲みに行ったりして、 大変なときは不思議な連絡網で助けたり助け合ったりして、 休日はスタバ行ったり遊びに行ったりドラマでよく描写されるような生活に自動的になっていくものだろう、 と心のどこかで思っていたのかもしれない。 そんなことないね。 気軽に話せる関係はそれぞれの努力で培うものだ。 週末飲みに行けるような景気ではないし、それだけの経済力がある人間は週末飲みに行ったりしない。 不思議な連絡網はちゃんとした友人同士の心遣い
ごみと夢の分別、理想と信念の区別など、自身の持ち物の正体を掴めていないまんま過ごす時間が、人生には長すぎるくらいある。 夢という話題が、僕は苦手だ。 「お前、夢とかないのか?」 ときかれたときには 「ないこともない、かもなぁと思いますけど」 という曖昧さで返事して、 「夢(未来)があるっていいなぁ」 と言われれば 「そういうのとはちょっと違いますよ」 って言うし、 自分でもよくわかんなくて趣味とか目標とか言ってるそれのことを訊かれるのが、僕は嫌いだ。答えに困るから。 夢