君の声を聴かせて
彼女の事は以前から知っていた。
地元では有名なバンドのヴォーカルだったから。
噂ではスカウトされて事務所に入るとか、モデルになるとか色々言われていたけれど…
彼女は地元の大学に進学して僕の叔父が営むカフェでたまにバイトしている。
それを知ったのはゴールデンウィーク中だ。
連休で忙しいからバイトに来てくれと叔父から言われ、仕方なく重い腰を上げてカフェに出向くと…
「いらっしゃいませ」と爽やかな声が僕を迎えてくれた。
なんだ…
バイトいるなら来なくて良かったかなと思いながらカウンターに目を向けると…
「お好きな席にどうぞ」と僕に笑いかけてくれたのは、高校3年間ずっと憧れていた彼女だったのだ。
「ごめん、客じゃなくて臨時のバイトに来たんだけどマスターいるかな?」
「マスターならさっき慌てて何処かに出かけたからしばらく帰って来ないんじゃないかな?
せっかくだから珈琲でも飲まない?
東雲君だよね?お久しぶり」
彼女とは、高校3年間同じクラスになる事はなかったが一応僕の事は知っていてくれたようだ。
「岬さん、久しぶり。
東雲で合ってるよ。
有名人の岬さんに覚えてもらえてたなんて嬉しいな。
僕、珈琲は淹れられるんだけど味は苦手でね…
てかさぁ、マスターから珈琲淹れていいって言われるなんて岬さんてバリスタか何かなの?」
憧れの彼女に覚えていて貰った事で舞い上がっている事をかくすように僕は饒舌になった。
「まだ、バリスタではないけどマスターから珈琲淹れていいぞって言われたから先週からお客様に珈琲を淹れてるの。
えー。私なんて有名人じゃないよ!
それ言ったら東雲君の方が有名人だからね?
成績は3年間不動の1位で、2年の時から生徒会長やってたし…
バスケでも活躍してたじゃない?
私の周りでも、東雲君に憧れている子が沢山いたから情報が集まってきてたのよ。
ちなみに、この店のマスターが東雲君の叔父さんだから来たいって東雲君推しの友人に連れて来られたの。
それがきっかけでマスターの珈琲が気に入って、高校時代からたまに来てたのよね。
ねぇ、東雲君。
珈琲が苦手なら紅茶にする?
紅茶には珈琲より自信があるから注文してくれていいよ?」
僕が憧れていた岬夕梨という女性は思っていたよりも話しやすくて、今までもこのカフェで会って話していたような気持ちになった。
「じゃあ岬さんが得意な紅茶にしようかな。
ロイヤルミルクティーとチーズケーキをお願いします」
彼女にオーダーすると、僕は定位置であるカウンターの隅に座った。
昔からこの場所がお気に入りで、母と店に来ると決まってここに座り、叔父さんの作るミックスジュースやホットケーキを食べながら漫画を読んでいたのだ。
本当は、ミックスジュースが頼みたかったけど…
子供っぽいと思われたくなくてロイヤルミルクティーにしてしまった。
憧れの岬さんが、僕の事を有名人なんて言うからだ。
僕はカウンターの隅で、岬さんがロイヤルミルクティーを淹れる様子を眺めている。
彼女は紅茶に自信があると言うだけあって、動きに一切無駄がなく見ていて心地好い。
彼女はやっぱり絵になるんだよなぁ…
僕は彼女に向けて心のシャッターを切った。
紅茶を淹れていても、彼女からはメロディが溢れ出してる。
歌ってもいないのに、彼女の歌声が聴こえてくるような気がしてしまう。
僕は待っている間に、妄想の世界にどっぷり浸っていた。