小説「こころのひだ」1
「ひだがなくなったよ」
早く終われ、と願ったことがようやく終わり、ベッドに倒れ込んで横になる私に向かって、
橋本くんはそう呟いた。
それは、まるで人工音声が天気予報を読み上げるみたいな単調さだったし、橋本くんの唐突で脈絡のない呟きに一瞬、頭が混乱して、
私の膣の「襞が無くなったよ」。
そういう意味で言っているのかと思った。
私の家は、南向きには大きめの窓があって、そこからは日差しがよく差し込むし、ベランダの外を覗けば、晴れた日には、洗濯物が風に靡くのをずっと、眺めていられる。今日なんか春一番だったから、生まれたての風が思いきり飛び回るすずしさで、うたた寝をした後、夕方になるまで、外をぼけーっと眺め続ける、無気力で幸福な土曜日になるはずだった。
それなのに、私の体とは八月の猛暑のように熱く茹っていて、汗ばんだ肌にシーツや髪が張り付いた。肩で息をしていたけど、それと同時に、眠気で意識が朦朧としている。
昨夜の十一時過ぎ、突然連絡もなしに橋本くんが私の家にやって来て、朝になっても繰り返される彼の「もう一回。」に何度も付き合ったせいだ。後半は、なかば死姦に近い状態だったと思う。
「ひだがなくなった、ってどういう意味。」
おでこから流れる汗を拭い、重たく閉じかけた瞼を開くと、橋本くんは勝手に冷蔵庫を物色したんだろう、新品のスパークリング・ウォーターをごくごくと飲んでいた。
それは、私がハイボールを作る用に常備しているもので、あと残り一本しかないはずだ。
それを指摘しても、悪いとも微塵に思わなそうな橋本くんの飄々さは、私が最初に彼に惹かれた理由でもあったけれど、最近は、自己主張の苦手な私を都合よく搾取してるようにも感じる。
でも、横顔のまま、目玉だけを動かして私を見る些細な視線だけが、彼の変わらず美しいところで、その仕草だけがわたしのか細い心を唯一繋ぎ止めていた。
「どういう意味って、飛田だよ、飛田俊樹。
俺らと同じ中学だったやつ。」
覚えてないの、と橋本くんはぶっきらぼうに言った。
飛田俊樹くん。それは、中学二年の時に一緒のクラスだった、とても端正な男の子の名前だった。綺麗な顔の飛田くんは入学式早々、二学年上の美人の先輩から見初められ、告白されたこともある。だけど、彼を噂したり、もてはやすのは初めの時だけで、知れば知るほど、彼は周囲に違和感を与えていく人でもあった。
とたんに、冷たい予感が背筋をなぞった。
「なくなったって、飛田くんが?」
私は、確かめるつもりで橋本くんに聞き返した。聞き間違いであってほしかった。
「そうだよ、死んだ。
バイクで事故を起こしたらしい。」
橋本くんはやっと分かったか、というような顔をすると、極々と飲み干し、空になったペットボトルを冷蔵庫の上に置いた。
ちょっと、勝手に全部飲まないでよ。
私の分無くなったじゃない。そう言おうとしたけど、感情と言いたいこと、考えたいことがバラバラで頭の処理が追いつかなかった。いや、それより、そんなことより、なくなった。
あの綺麗な飛田くんが、
変な違和感をみんなに残す飛田くんが、
飛田くんが、彼の命が、亡くなった。
飛田くんは、死んだんだ。
それを頭で復唱し、理解した瞬間、血の気が引いて、体の奥底がしんと冷たくなった。
「あいつ、
自転車もろくに乗れなかったのにな。」
橋本くんは追い打ちをかけるようにそう言うと、眉をしかめて笑った。笑い方が皮肉的で、棘があった。
「ガードレールで曲がり切れないとかなら、
まだ分かるけどさ。」
「どういうこと。」
「花実、あいつ、何に激突したと思う。」
私は分からない、と首を横に振った。
「街路樹だよ。県とかが予算出して、街の緑地化に貢献しようと育てた木に、あいつはぶつかって死んだんだ。」
私は橋本くんを黙らせたかった。理由はわからなかったけど、無性に腹が立って仕方なかった。
「あいつ、疎かったもんな。」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
気がつけば、
シャワー室の方へ足を運んでいた。
「あ、俺もシャワー。」
後ろから近づいてきた橋本くんを遮るように、わたしはピシャリとドアを閉めた。
「一人で入る。」
続く...かも
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