彷徨う言葉
「お父さん」
ときどきふと思い出しては、その言葉を声に出して言ってみる。
すると私の発したその「お父さん」という言葉は、ふわふわと当て所なく宙を彷徨い、終いにはスーッとどこかへ消え去ってしまうのだった。
いつもこうだ。
何が言いたいかというと、私のなかで「お父さん」という言葉は、実感を伴わない、とてもふわふわとした中身のない言葉なのである、ということだ。
「お父さん」と実際に会ったのは小学6年生のときが最後で、そこから「お父さん」という言葉を使うことはほとんどなくなっていったように思う。父と住む家を出てから、母も姉たちも、誰も彼を「お父さん」とは呼ばなかった。みんな「お父さん」が嫌いで憎しみをもっていたし、離れて暮らしてからはもはや家族とは見なされておらず、一刻も早く赤の他人になりたいといった感じだったのだ。だから家族のなかで「お父さん」の話をするとき、みんな彼のことを「あの人」と呼んでいた。
そういったこともあって、長年「お父さん」という言葉を発しなくなった。するといつの日からか「お父さん」という言葉を声に出して発したときに、とても不思議な感覚に陥ることに気がついたのだ。それが冒頭のふわふわとした感覚である。
「お父さん」という言葉を発したとき、脳内に現れるのはもちろん実の父なのだけれど、ただ私のなかには、父は父であって父ではないような、そんな感覚が存在しているのだ。医学的な血の繋がりはあるが、長年離れて暮らし、会うことも話すこともなかったため、もはや感覚としては他人に近い。かつて「お父さん」は確かに私のなかに存在していた。けれど離れて暮らすようになり、私の親としての(私を育ててくれた人という意味での親)「お父さん」はもういない。私の親は「お母さん」だけだ。その意識が、私のなかで「お父さん」という言葉をとてもふわふわとした実態のないものにしているらしい。
父の死に目にも会ったし、葬式にも出た。涙も流した。でも正直それだけだ。深く悲しむといったことはなかった。だってもう長いこと私の生活のなかに「お父さん」はいなかったから。ずっといなかった人の死に目に会って、またその人のいない元の生活に戻っていく。ただそれだけ。なにひとつ困ることもない。ただ私が「お父さん」と口に出すたび、ふわふわと当て所のない言葉が彷徨っては消えていく。私にもなぜだかわからないけれど、ときどきその彷徨う姿が見たくなるから、誰にも聞かれないようこっそりと「お父さん」と声に出して言ってみたりする。これからもずっと、どこにもたどり着くことができない、着地点のないその言葉の、彷徨っては消えていく姿を見つめ続けるのだろう。そんなことを思う、今日この頃である。
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