『裸の聖書』15. 始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -3
こんにちは、もんぱちです❣情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。
「翻訳すべきではない用語がある」
誠実であるために、正確な意味が分からない言葉は翻訳せずそのままにしておくことが必要なのだとビグリーノ氏は言います。
でも翻訳不可能な言葉を、文脈から推測できたらどうなるでしょう?
様々な疑問がビグリーノ氏を自身の本の出版へと導きます。
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始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -3
「その通りだ。メギロットの場合、細かい作業はわたしたちがやったんだ。わたしは彼らのオフィスに行って、一緒にテキストを確認したんだ。」
同じテーブルに並んで座り、マウロ・ビグリーノとドン・ベレッタは、出版社自身が定義した『テキストの最終草案に対する入念な校正作業』、つまりヘブライ語とギリシャ語のテキストを校正し、さらに編集作業全般を行った。
「つまり、わたしが翻訳を提供し、その上で『詳細な作業』が行われ、ギリシャ語テキストの正確な構成に注意を払ったんだ。」
『5つのメギロット』は完成し、3年後に新たな契約が結ばれた。その契約は別の12 冊の本、いわゆる『小預言者 』である。
本の最後には、今ではおなじみになった謝辞が再び記されていた。「この『小預言者 』のために、まず行間翻訳版の暫定草案を提供し、その後より精緻な草案を完成させ、最終的にヘブライ語の最終草案及びギリシャ語テキストそして編集全般の入念な校正作業を支援してくれた、トリノの友人、マウロ・ビグリーノに捧げます。」
「もちろん、大出版社は常に、協力者の仕事に介入する契約上の権限を保持している。わたしの場合でもそうすることができただろう。」
『翻訳は承認を条件とする』と契約書には白黒ではっきりと明記されていた。
『わたしの翻訳が受け入れられるかどうか、氣に入るかどうかは彼ら次第である』という意味である。
それだけではない。『原文に忠実でなければならなかった。』
彼は『翻訳の信憑性を保証し、それに対するすべての責任を負う』必要があった。
マウロ・ビグリーノにとって本当に重要だったのは、大学教授や神学生といった教養ある一般大衆を対象とした出版物において、エディツィオーニ・サン・パオロ社が決して軽率で不適切な翻訳や、原文ヘブライ語のテキスト性によって正当化されない翻訳は出版しなかったことである。
「ここ数年、何度も言っていることだが、わたしの意見では翻訳すべきではない用語がある。それは誠実さの問題だ。なぜなら、わたしたちはそれらの言葉が何を意味するのか正確には分からないからだ。だから、誠実であるために、書かれているとおりにそのままにしておくことが必要なのだ。」
神の栄光?
「いや、ヤハウェのカヴォドだ。それだけが、実際に書かれていることだ。」
マウロ・ビグリーノは、エディツィオーニ・サン・パオロ社の釈義学的、文献学的正確さを称賛している。「わたしが編集作業を行っていた間、わたしたちが一緒に取り組んだ書籍に関しては、イタリア語でも『エロヒム』という用語がそのまま残された。彼らはそれを『神』とは訳さなかった。」
『ヤハウェ』という言葉についても同じことが言える。「『ヤハウェ』を 『主』と訳すのは完全な捏造であるにも関わらず通常版の聖書では『主』と訳されるが、この言葉も常に『ヤハウェ』のままで、『主』とは訳さなかった。」
行間翻訳版の聖書では、すべてがそのまま残された。
「わたしが最高に満足しているのは、それらの巻で『エロヒム』が常に『エロヒム』のままであったことだ。」
もう一つの論争の的となった用語である『ルアック』は、非常に頻繁に『霊』と表現され、聖書に超越の概念を導入している。
「しかし、これらの版では、『ルアック』さえも翻訳されず、『ルアック』のままだった。例えば、創世記第1章2節では『エロヒムのルアックが水の上を漂っている』とある。」
この意味合いは注目に値する。
マウロ・ビグリーノの脳のどこかで、電球が点灯したに違いない。ルアック が『霊』でなく、カヴォドが『栄光』でないなら、それらは一体何なのか?
そして何よりも、もしヤハウェが神でないなら、彼は誰なのか?
これらの用語の従来の翻訳を避けることで、聖書がまったく別の物語を語っていることがわかるだろうか。
一方、翻訳者は、エディツィオーニ・サン・パオロ社の編集者たちと肩を並べて仕事をした当時の感動を、今でも懐かしく思い出している。
「その言葉が翻訳されなかったという事実だけでも、わたしには大きな満足感があった。というのも、実際、その言葉は翻訳できないし、翻訳すべきではないと自分に言い聞かせていたからだ。試みられた翻訳はすべて完全な捏造であり、今日に至るまで、その特定の用語が翻訳されずに残っているのを見るのは喜ばしいことだ。」
しかし今、種は蒔かれ、旧約聖書はマウロ・ビグリーノに全く異なる意味を持つ新たな側面を明らかにし始めた。
ある仮説が形成され始めた。もしこの話が一貫しているとしたら?
聖書に登場する人物の本当の正体や、翻訳不可能な『付属品』の本当の機能を、文脈から推測することが可能だとしたら?
例えば『ルアック』は宇宙船のようなものだろうか?
カヴォドは?戦争マシン?戦闘機のようなもの?
次から次へと出てくる全ての疑問は、長いシリーズの最初の作品となる、自律的に発展した本の草稿に行き着いた。
タイトルは『聖書についてのわたしたちの考えを永遠に変える本』。
この本は運命の年、2010年に発売される予定だった。
その間に、エディツィオーニ・サン・パオロ社は翻訳者に別の提案をしていた。
ドン・ベレッタは、『もしあなたが同意してくれるなら、『ヨシュア記』と『士師記』の翻訳を始めてほしい』と伝えていた。
そこで彼は作業を開始し、この2冊の聖書も翻訳し、カトリック出版社のために編集した旧約聖書の総冊数は19冊になった。
そしてついに、聖書に対するわたしたちの考えを『永遠に変える』と約束された、あの『別の』本が出版された。
翻訳者が、つい最近与えられた最後の仕事を失ったことは言うまでもない。ヨシュア記と士師記は、少なくともビグリーノが行間翻訳に基づいて編集した版では、もはや出版されることはないだろう。
それは理解できる。あの『細かい仕事』は、別の出版社でフリーランスの仕事として行われていたが、それ以上のものになっていた。
「わたしはエディツィオーニ・サン・パオロ社のことを完全に理解している。
わたしが自分で書いた最初の本の後、彼らはもはやわたしの翻訳が彼らのような出版社、カトリックの出版社のコレクションの一部であり続けることを受け入れることができなかったのだ。」
一言で言えば、突然の別れだった。
マウロ・ビリーノは10年経ってこう語る。「しかしながら、特にドン・ベレッタとは、人間的なレベルでも友好的な関係だったと言わざるを得ない。」
それだけではない。
「ドン・ベレッタは、わたしの最後の2作品を出版することはなかったが、その代金を支払ってくれた。彼らが『氣に入らない』と言えばわたしにはどうすることもできなかっただろう。でも、彼らは最後まで揺るぎない公正さを保ってくれた。」
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ベレシト: はじめに -1 へ続く
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「裸の聖書」マウロ・ビグリーノ氏関連リンク
グラハム・ハンコック氏との対談動画RumbleにUPされました❣
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そのスクリプトを記事にしたEriさんのサブスタ記事です。
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