『裸の聖書』33. 大いなる詐欺 :ナンセンスな長い伝統 -3
こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。
天使って清く美しい神の使いってイメージあったけど
現実は長い髪の女の子が好みで性的に興奮するとか
そりゃ天使に積極的に会いたくはないよね
それに氣づいていた聖パウロも
女性は頭を隠さず天使の前に姿を見せてはダメって警告してる
天使に会うのはとくに若い女の子にとっては危険すぎ?
前回の記事はこちら↓↓↓
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大いなる詐欺 :ナンセンスな長い伝統 -3
ではヴェッラかヴァッラか?古代の言葉を創造性豊かに扱うとしたら、どちらが勝つのだろうか?
どちらが最終的に勝利するだろうか?シャーシャの大修道院長のような詐欺師の行為に文字通り具現化された純粋なフィクションか?それとも、コンスタンティヌスの献金詐欺を暴いたルネサンス期の人文学者の文献学的厳密さか?最終的に勝つのはどちらだろうか?
ビグリーノに言わせれば、前者だ:テキストへのいかなる忠実性にも基づかない絶対的な『創造性』である。
わたしたちは天使の話をしていただけではなかったか?
「一般的に、天使の人物像は恐ろしいものだった。生身の個体であり、食べ、歩き、汚れ、身を清めなければならない。ソドムのロトの物語で、群衆に襲われる危険を冒して2人の『天使』がロトを訪ねてきたことからも明らかなように、彼らは攻撃されることさえあった。」
そのため、彼らに会うのはそんなに嬉しいことではなかった。
「聖パウロもまた、このことに氣づいていた。彼は手紙の中で、いわゆる『天使』がいる可能性のある集まりに、女性たちが頭を覆わずに現れることは絶対に避けるよう警告している。」
「『天使の性的嗜好』についてだが、天使たちは髪の長い女の子が好みで、性的興奮を覚えていたようだ。そしてどうやら、そのことに関しては慎重ではなかったようだ。」
その通りだ。彼らはまた、男たちの命についても慎重ではなかった。
士師記第 6 章に引用されている、ギデオンがマラキムの 1 人に出会ったときのエピソードは、非常に印象深いものだ。
いわゆる『天使』は彼に食べ物を持ってくるように頼み、ギデオンはそれに従う。
「そして、『天使』はギデオンに食べ物を石の上に置かせる。手に持っていた道具を使って、彼は即座に石に火をつける。」
この光景を前に、ギデオンは叫び声を上げる。彼は怯える。『天使』は彼を安心させ、『あなたは死ぬことはない』と言う。「つまり、『天使』であるマラキムたちとの出会いは、一般的に楽しいものでも歓迎されるものでもなかった。実際、危険でさえあったんだ。」
つまり、聖書の天使たちはあまり安心できる存在ではなかったということだ。
では神学が不屈の敵として引き合いに出すもう1 人の偉大な人物についてはどうだろうか?
『イエス・キリストが疑いと苦しみの中にあるとき、わたしはそばにいた。』
ここで語っているのはサタン自身だ。
『ピラトが手を浄め、彼の運命を定めるのを見届けたのだ。』
この*歌詞はローリング・ストーンズのフロントマン、ミック・ジャガーによるものだ。『シンパシー・フォー・ザ・デビル(悪魔を憐れむ歌)』という半世紀前の曲だ。
*参考サイトhttps://resion.hatenablog.com/entry/2019/04/23/155650
ストーンズの悪魔は誘惑者だ。
『多くの人の魂と運命を盗んだ』と彼は告白する。しかしその後、彼は自分の本性について非常に世俗的な面を明らかにしている。
『サンクトペテルブルクに留まっていた時、変革の時を目撃したんだ。』
ロシア革命だ。『皇帝と側近を殺し、アナスタシアは空しく悲鳴をあげた。』
彼は現代の悪魔であり、戦争の悪魔である。『電撃戦が激しさを増し死体が悪臭を放っていたとき、わたしは将軍の地位にいて戦車に乗っていた。』
彼はあまり『超自然的』な悪魔ではないだろう。むしろ、人間の魂に内在しているように思える。人間の持つ『闇』の部分、人間の中にある邪悪な傾向のように。
彼は、中世の表現においてクレルヴォーのベルナールが常に鎖に繋いでいた悪魔を彷彿とさせる。聖ベルナールのメッセージは、悪はわたしたち全員の中に存在するので、偽善者にならない方が良いというものだ。重要なのは、悪を認識し、それを抑制し、無力化することなのだ。
『天使と悪魔』については、ダン・ブラウンも2004年のベストセラー小説の中で論じている。しかし、彼らは実在の人物であり、(善と悪の)特別な代理人である。
古代ギリシャ語では、『分割する』という意味の動詞『diaballo(ディアバロ)』が対立の概念を要約している。それは聖書的なものだろうか?
確かにそう思える。
「サタンとはヘブライ語で『敵対者』あるいは『告発者』を意味する言葉だ」とビグリーノは説明する。
ただし、注意が必要だ:「聖書では、サタンとは悪霊のことではなく、ましてや悪魔の王を指すものでもない。ヘブライ語の『サタン』という言葉は、実際には一時的に、場合によってはヤハウェ自身の命令によって埋められなければならなかった地位を表している。」
「サタンの役割は、エロヒムかマラキムのどちらか、あるいは人間によって担われる可能性がある。なぜなら、それはまさに神学が言及する邪悪な存在を示唆していないからだ。」
否定することは無意味である。ビグリーノの魔法の絨毯で聖書の上を飛び回るのは、いつでも少し奇妙なものだ。
悪魔サタンはいない。そして、2千年にわたる恐怖、脅迫的な召喚、不可解な現象、それらに関連する悪魔祓いとはおさらばだ。
サタンとは?人物像というより、むしろ職務だ。社会的役割、それも一時的なものだ。
今日で言えば、検察官のようなものだ。
中世キリスト教世界全体を『輝かせた』あの有名な聖書の悪魔についてはどうだろう?
「神学がヤハウェから始まる霊的に超越的な神の姿を創造したとき、現実には他のエロヒムに過ぎなかったすべての者たちを霊的ライバルとしたのだ。」とビグリーノは説明する。「彼らは同じ土地の支配権を争う者たちだ。」
バアル・ペオルと呼ばれていたのは、そのようなエロヒムの一人だ、と学者は続ける。それは『性器露出の主』を意味する。そして実際、彼は信者たちに多くの性的儀式を行わせた。
「彼の名前はギリシャ語でバアル・フェゴールと書き直された。」
ヤハウェと競合するもう一人のエロヒムである彼の『同僚』バアル・ザヴヴにも同じことが起こった。バアル・ザヴヴとは『蠅の王』 を意味する 。
実際、イスラエルのエルのライバルは2人だけで、あらゆる点で彼らに似ている。しかし、ヤハウェが『唯一神』に変容したとき、彼のライバルたちは『悪魔』の地位に降格された。
彼らの現在の名前は?
もちろん、ベルフェゴールとベルゼブブだ。
再び作家のシャーシャに話を戻すが、どうやら勝負にならないようだ: ヴェッラがヴァッラに勝利する。純粋な想像力の勝利だ。
『想像力に力を**』、伝説的な1968年の言葉である。偶然にも、ミック・ジャガーが人間的な悪魔の声を披露したのと同じ年だ。
彼もまた、サタンの真実の物語について何か知っていたのだろうか?
**"All Power to the Imagination"1968年5月にフランスのパリで起きた一連の
政治・社会的な抗議運動「五月革命」におけるスローガンの一つ。
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聖書の神とその敵対者サタンという発明 -1へ続く**********************************************************
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