『エクリヲ13 鬱の時代・ポストクリティークⅡ』

 抑うつだかBPDだか社交不安だかなんだか分からないものに苛まれていた時期、結局医療や制度的な支援を求めることができなかった。いや、複数箇所のクリニックにもカウンセリングにも赴いたのだが全て1回どまりだった。それにはまさに症状がもたらす治療抵抗、あるいは否認のためだったのだろう。そのうちに環境を変えることができ、自分の立場が経済的・社会的に恵まれてていたというだけの理由で私の生活は破綻せずに済んだ。

 通っていれば診断を受けて、なんらかの病名を持った患者として医療のなかで主体化することになっただろうか。と想像したりもするが、自分にそれは出来なかったのではないかとも思う。医学だって歴史と様々な権力関係と切り結びながら変化してきたものだから当たり前に相対化されうる。そのときに医療人類学という分野は有益なアプローチを持つだろう。

 詳しくは著書を…というところだと思うが、特集「鬱の時代」の冒頭は『うつの医療人類学』の著者、北中淳子のインタビューが飾る。アメリカでの精神分析派とバイオロジカルに病を治したい製薬業界と結び付いた派閥との綱引き。そして日本における「うつは過労の結果」というような大衆化された語りの特殊性などが指摘される。

 なかでも興味深いのは、臨床医が(あるいは患者が)精神の失調を人生の問題と結びつけ、そこに過剰な意味や向上、救済を求めることへの批判だった。休んでいれば回復したかもしれないものを医療化することでかえって収拾が付かなくなる人が多いということで、全く身につまされる話だ。問題を人生に結びつけるとどうしたって幼少期が出てきてしまう。自閉症を粗暴な精神分析理論で母親の育て方のせいにする傾向がアメリカであったことにも言及されるが、こないだも大人のADHDを母親の愛情がどうこうに結びつけて批判されていた有名な人がいた。文学における幼少期のことをもう少し考えたい。尚、このインタビューは全文がエクリヲのウェブサイトにも掲載されている。

 斎藤環のインタビューは、臨床の側から、しかし思想的な視点で語られる。かつてのうつ病は勤勉という社会規範への過剰適応として特徴付けられたが、現代はコミュニケーション能力や人から承認されるという価値への過剰適応であることが多く、そのために難治化しているという。承認を回復することは容易ではないからだ。承認とひとくちに言っても、重要なのは希少価値の高い承認、すなわち利害関係のない他者からの承認であって、医師や家族からのそれは価値が低い。そのような承認の回復のための試みの1つとしてオープンダイアローグもある。

 北中と同様、斎藤もうつの治療において、本当に心の深いところに切り込む必要があるのかと問う。ほとんどの精神疾患が治療(cure)でなくケアで対処できるのではないかという立場が臨床の現場で持たれていることは刺激的だと思う。一方で、同じストレスを受けても脳に起因する個人差があって病におちいる人とそうならない人がいる限り医療は存在意義を発揮できるとも言う。

 鬱映画特集は、宗教がモチーフを提供するアポカリプスやカタストロフもの、幼少期のトラウマにもとづく悲劇といった、原因と向き合うことのできる旧来のホラーや悲劇とは区別される、現代のより漠然とした不能感と向き合う、意志によって制御できないものに苦しむものたちのドラマ、という切り口で50本のリストが作られている。

 ほか、木澤佐登志の文章で木村敏のポスト・フェストゥム概念を知る。うつ病患者を特徴付ける時間意識で、罪の意識、負い目の経験が根底にあるというそれだけれど、斎藤環が指摘するような状況の変化が起こっているとしたら、大うつ・統合失調症・癲癇が精神科の三大領域だった頃のこのような分節化は現在どれだけ有効なのだろう。ともかくも読んでみなければだけど。

 当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、「鬱の時代」特集のなかでメンヘラという言葉は一度も使われていなかったように思う。医療から出てきた病名(である以前には英語でも日本語でも落ち込みやふさぎを意味する一般語だったわけだが)と自助的な空間で生まれて今やほとんどすっかりBPD、あるいはそこまで行かない不安や承認を求める傾向にある人々への蔑称になってしまった言葉の間には含意するものの大きな開きがあるには違いない。しかし現代を鬱の時代と呼ぶならば、同時に今は人々の認識のなかでメンヘラとカウンセリングの時代でもあるはずだ。

 『アメリカン・サイコ』で主人公が浮気相手に「うつ病なんか薬を飲みまくってさっさと治しちまえよ」というような台詞を吐く場面があったけれど、SNSなんかで見られる言説はむしろ、「メンヘラは人に依存せずにカウンセリングに行って認知行動療法で歪んだ認知を修正して適応的な人間になれ」ってな具合だと思う。(被害妄想だろうか)。そうしてそれは「価値観をアップデートして差別しない他者に寛容な(均質な)人々になりましょう」というメッセージと通底するところがあるから嫌になるのだが。

 そういう繰り言はさておき、メンヘラという言葉(ないし言説)を避けて通ることでこの特集は射程が絞られて面白いものになっていると思った。

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