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イチゴジャム、秘密のレシピ。
「ミク、五年生から新しい学校に行ってみる?」
キッチンからいい香りが漂ってくる。
コポコポコポ。コーヒーをいれながら、ママが聞く。まるで、今日は水曜日だったっけ?みたいにさりげなく。
私はパジャマのまま、今年初めてのイチゴをつまんで口に放り込んだ。甘酸っぱい。小さい頃からイチゴが一番好きだった。
「とってもステキな学校なんだよう」ママは歌うように軽やかに言うと、食器棚からマグカップを二つ取り出し、コーヒーを注いだ。
「ミクはミルクもね」
ママはタプタプタプとミルクを入れて、ミクの前にマグカップを置いた。
「せっかくだから私も入れちゃおうっと」
タプタプ。ママは少しミルクを入れると、マグカップを両手に包み込んで顔の前に持ち上げた。すーっと深呼吸して、いい香り、とつぶやくと、コクコク飲んだ。
「うわあ、おいしい。パリを思い出すわあ」
うっとりした表情で、ふーぅ、とゆっくり息を吐いた。つられてミクもマグカップを顔に近づけた。少し飲んでみたら、ふわあと甘い香りがして、いつものカフェオレより、まあるい味がするような気がした。
「甘いね」
「でしょ。お砂糖入れてないのに、甘い。このミルクの力かなあ」
チン、と音がしてトーストが飛び出した。このトースターはずっとうちにある。最近はちょっと焦げちゃったりするのだけど、ママによるとこれじゃないとだめらしい。
「今日はとっておきのジャムがあるんだ」
ことん、とテーブルに置かれた瓶には〈いちじく〉と書かれていた。ミクはいちじくは好きでも嫌いでもない。どっちでもいい果物だ。
「ボンジュールうるわしのフィグー♪」でたらめな歌を歌いながら、ママはたっぷりとジャムをすくってトーストの上にのせた。ぱくっと食べて、セボーン!と言うと、ミクのトーストにもジャムをこんもりのせた。
「ほら、ミクも食べて!」こんがり焼けたトーストの上に、プチプチ小さな粒が混じった、赤茶色のジャム。いつものイチゴジャムでいいのにな、と思ったけれど、何も言わずに食べてみる。
ん?あれ?思ったのと違う。おいしい。ジャムの瓶をくるりと裏返したら、ラベルに原材料:いちじく、きび砂糖、レモン汁、その下に〈なずな学園〉と書いてあった。
「ね、おいしいでしょう。このジャムもミルクも、なずな学園ってところで作ってるの。この学校、どう?」
パタン、と部屋のドアを閉めて、ベッドに寝転がった。新しい学校かあ。
ミクが学校に行かなくなったのは、制服が長袖に変わった頃だった。行きたくないな、ってつぶやいたら、うーん、そうね、それもいいかもね、とママが言ったので、それからずっと家にいる。
ママは画家で、家で絵を描いている。パパには会ったことがない。ママが描いたパパの絵が、ミクの部屋の壁にかけてある。わりとハンサムだと思う。
「パパ、新しい学校ってどう思う?」
絵のパパは静かにやさしく笑っている。
「わあ、イチゴがいっぱい!」
ミクは思わず走り出していた。緑の葉っぱの間から、真っ赤なイチゴが顔を出している。
「ははは、好きなだけ食べていいよ」
一番大きなイチゴを選んでかじったら、口の中でイチゴがはじけた。
ミクはママと一緒になずな学園に来ていた。出迎えてくれたのはクマさんだ。本当は熊川先生という名前で学園で一番えらい人なんだけど、みんなクマさんって呼んでるんだって。
「私もクマさんって呼んでいいの?」って聞いたら「もちろんだよ」って。
夢中でイチゴを食べていたら、お腹がいっぱいになってきて、ミクはお話ししているママとクマさんのところに戻った。
「満足したかい?」
「はい、体の中が全部イチゴになってしまったような気分です」
ミクの言葉に、クマさんは、おもしろいお嬢さんだ、と笑い、畑を案内するよ、と歩き出した。
これは梅、これはぶどう、あれはレモン、とクマさんは木を指差しながらゆっくりと歩く。
あれは?とミクが聞くと、いちじくだよ、とクマさんが答えた。
「あのいちじくのジャム、今思い出してもうっとりしちゃうなあ。ね、ミク」
「うん、いちじくってそんなに好きじゃなかったけれど、あのジャムはおいしかった」
「ははは、正直だね、ミクちゃんは。ジャムが好きかい?」
「はい、毎朝トーストにジャムをぬって食べてます。イチゴジャム、時々リンゴジャム、です」
「そうか。もうすぐイチゴジャムを作るよ」
「さっき食べたあのイチゴで?」
「そうだよ。最高においしいよ。煮ている時の香りもたまらないんだ」
クマさんはあごひげをこすりながら目をつむった。
ミクも目をつむって想像してみる。真っ赤なイチゴがお鍋の中でくつくつ煮込まれて……。
「ミクちゃんも一緒に作るかい?」
「うん!」ミクは思わず返事していた。
本当にこの格好でいいのかな?なずな学園に向かうバスの中で、ミクはちょっと心配になる。ピンクのTシャツとジーンズにスニーカー。
制服は?と聞いたら、制服は無いから好きなもの着ておいで、でも汚れても泣きたくならないものだよ、って。靴下は?って聞いたら、クマさんは大笑いして、なんでもいいよ、と言った。これまで通っていた学校は、靴下の長さも色も決まっていたから。
ミクは二番目に好きなピンクの水玉の靴下を選んで、白いスニーカーをはいた。
なずな学園に着くと、クマさんが玄関で待っていてくれた。
「入学おめでとう!さあ、教室に案内しよう」
ミクはドキドキしながら、クマさんの後をついて歩く。長い廊下の両わきに教室が並んでいる。米組、野菜組、果物組、花組、パン組、チーズ組……。ひとつの教室の前でクマさんはガラリと扉を開けた。
「みなさん、おはよう!新入生を連れてきたよ」
クマさんはミクを教室にまねき入れた。入っておどろいた。ミクよりもずっと大きな人がいたから。全部で八人、大学生のお姉さんみたいな人や、中学生ぐらいの人もいた。
「ジャム組にようこそ!担任のミセス・ベリーよ。お名前は?」にっこり笑った女の人はイチゴ模様のエプロンを身につけている。
「えっと、広田ミクです。よろしくお願いします」ミクはぺこりと頭を下げた。
「ミクちゃん、かわいいお名前だこと。じゃあ、そこに座ってちょうだいね」ミセス・ベリーは大きなお姉さんの隣の席を指差した。席に座ると、お姉さんが、その靴下かわいいね、と言った。
「私、サクラ。わからないことがあったら聞いてね」とにこっと笑ってくれて、ミクはちょっと安心する。
さあ授業を始めますよ、とミセス・ベリーがポンと手をたたいた。
「今日はイチゴジャム。まず畑でイチゴを収穫して、その後ジャムを煮ます。ジャムの作り方を書くから、メモをとってね。とっておきの秘密のレシピよ」
ミクはリュックからノートと筆箱を取り出した。新しいノートの一ページ目に〈イチゴジャム、ひみつのレシピ〉と大きく書いた。
ぷちん、ぷちん。カゴの中にイチゴを入れていく。ミセス・ベリーは「おいしそうって思ったのをつむのよ」って言ってたけれど、見学に来た時のイチゴの方が大きくておいしそうだったな、とミクは思う。
「ミクちゃん、どう?」サクラが隣にやってきた。
「見学の時に食べたイチゴの方が大きくておいしそうだったんだけど」とミクが言うと、サクラは、ふふふと笑った。
「ミクちゃんが食べたのは、出荷用のイチゴだったのね」しゅっかよう?
「大きくて形がいいものは、そのまま売り物になるのよ」ふーん、そういうことか。
「小さいものをジャムにするのよ、ほら」サクラのカゴは小さな真っ赤なイチゴが山盛りだ。
「そろそろ調理室に行きましょう」ミセス・ベリーの声が畑にひびく。
調理室には、大きな鍋がふたつ並んでいた。前にママに連れて行ってもらった相撲部屋のちゃんこ鍋みたいに大きい。
四人ずつわかれてイチゴを洗う。大きなボウルに水をためて、やさしく、赤ちゃんを洗うみたいに、って言われたけど、赤ちゃんを洗ったことがないから、ちょっとわからないな、とミクは思う。
「マギー、一緒にヘタ取ろう。最近は高校、行ってる?」
「うん、週1回ぐらい。サクラさんのおかげ」
「おー、進歩したね」
サクラとマギーが包丁でイチゴのヘタを切り落としていく。マギーさんは外国人みたいな顔をしていて、テレビに出ているアイドルみたいだ。
「ユーリは砂糖の計量、ミクちゃんはレモンしぼってね」サクラの声にミクがレモンを探してキョロキョロしていると、あっち、とユーリが前のテーブルを指差した。その声が低くてどきりとしたら「私、男の体で生まれたから」ってユーリがぼそっとつぶやいた。
「あ、うん、ありがとう」ミクはあわててレモンを取りに行った。長い髪を後ろで一つに結んでいたので女子とばかり思っていた。
レモンをぎゅうとしぼりながら、ミクは、なずな学園ってなんだかすごいところだ、と感じていた。
コトコトコト。イチゴを煮る香りが調理室に充満して、開いた窓から畑に流れてゆく。ミクは胸いっぱいに甘酸っぱい空気を吸い込んだ。
「うん、いい感じね。さあ、火を止めて」ミセス・ベリーが宣言したとたん、マギーとユーリがお玉を持って熱々のジャムを瓶につめ始めた。軍手をはめたサクラがぎゅっと蓋をする。ミクはその瓶をくるっとひっくり返す役目だ。
ジャムは二十個できた。ずらりと並んだ真っ赤なジャムは、窓から差し込む春の光を受けてキラキラ光っている。
「きれい!」ミクは思わず声を上げた。
「初めて作ったジャムだものね。本当は一人一個だけど、ミクちゃんは特別に二個持って帰ってよし!入学祝いよ」ミセス・ベリーがウィンクした。
リュックの中には、イチゴジャムがふたつ、入っている。今日はおやつにトーストを焼こう。イチゴジャムをたっぷりのせて、ママと一緒に食べよう。だって明日の朝まで待ちきれないんだもん。ミクはゆるい坂道を駆け出した。家はもうすぐだ。