「真似する側に回るな、真似される側でないとだめだ」 漆琳堂 内田徹さん
寛政5年(1793年)から200年以上続く越前漆器を製造販売する株式会社漆琳堂の代表取締役 内田徹(うちだとおる)さんと職人の嶋田希望(しまだのぞみ)さんにインタビュー取材させていただきました。福井県鯖江市・越前市・越前町で開催された産業観光イベント「RENEW2021」の直前のインタビューとなりました。
漆琳堂さんの越前漆器工場見学
インタビューの前に、越前漆器工場を簡単に見せていただきました。
漆を塗る前の工程に「下地」という工程があります。木から器の形になった白木地の凹凸がある部分を補修した上で、砥の粉(とのこ)と地の粉(じのこ)と呼ばれる土の粉を混ぜたものを塗り、漆を塗れる状態にします。
「地の粉」は黒っぽい色の粉です。
その時に使う「へら」は刀で削りながら器の形に整えていきます。
この刀は代々受け継いで使っている刀だそうです。研いでいくうちにどんどん短くなっていくそうです。歴史を感じます。
この部屋にある「真空ろくろ」はろくろの上に漆器を載せ回転させて研ぎや磨き、塗りなどを均一に仕上げる、漆器には欠かせない機械です。器を裏から真空ポンプで減圧することにより器を固定し、回転させることができます。回転させながら耐水ペーパーなどで水研ぎしていきます。
この日は漆を塗る工程はイベント準備の関係で行っていませんでしたので、塗りの後に器を「乾燥」させるための「回転装置付きのムロ」を拝見しました。
漆を塗った後、漆が下に垂れるため、ぐるぐる回転させながら垂れを防ぎます。昔は人手で回転させていたそうですが、今は自動で回転の頻度を制御しながら「乾燥」させることができるそうです。
「乾燥」と言っていますが、漆は湿度を下げて乾燥させるのではなく、湿度を上げることで固まります。正確に言えば乾燥ではなく「硬化」というほうが正しいかもしれません。このムロの中で器を回転させながらの湿度を上げて「硬化」させているのです。
漆を塗る刷毛(はけ)は毛先を真っ直ぐにするために、少しずつ削りながら使っています。もともとは長い刷毛も使っていくうちに次第に短くなっていくそうです。
「この刷毛の毛は何の毛だと思いますか?」と内田さんに聞かれたのですが、編集部は誰も正解できませんでした。正解は本記事文末に記載していますのでみなさんもご想像ください。
漆琳堂の特徴
見学を終えて、内田さんにお話をお聞きしました。
ーーどのような漆器の製造が多いのでしょうか?
ホテル、旅館、レストラン、割烹料理店向けといった業務用漆器を中心に製造しています。越前漆器は国内の業務用漆器の80%のシェアです。ほぼオーダーメードで作っており、お客さんの好みに合わせて生産していく感じです。分業制が進んでおり、木地、下地、塗り、蒔絵、研ぐ人、販売、など産地全体で200社はあると思います。
ーー漆琳堂さんの社員の方は何名ですか?先ほど工房を拝見させていただいた際に女性の方が多い印象でしたが女性が多いのでしょうか?
現在(2022年3月時点)社員は12名です。男性は私と私の父だけで、他は全員女性です。県外から若い方が応募して来られるのは圧倒的に女性が多く、9対1の割合で女性の方じゃないかと思います。
ーー漆琳堂の特徴は何ですか?
塗師(ぬし)屋業です。昔の家内制手工業時代は、塗っている人が仕事をまず受注していました。戦前くらいまでは塗師屋さんが大阪や京都などの消費地から仕事を取ってきて、木地屋さんに依頼する。木地屋さんが仕上げたものを塗師屋に一度納品し、それをまた下地に出して、蒔絵に出す、みたいな流れでずっとやってきていました。そしてうち(漆琳堂)は230年経った今でもその流れでやっています。しかし今は問屋制になり、問屋さんが営業をして、製造をそれぞれの担当の方に依頼するような流れが多くなっています。
漆琳堂 内田徹さん
ーー自己紹介をお願いします。
私は8代目です。小さい頃は野球をしていました。大学は進学で愛知県に行きました。
ーー小さいころから工場をご覧になっていたのですか?
自宅と工場は一緒でしたので、近くで祖父や父たちがやっているのを見ていました。バブルの時期は梱包出荷作業も大変で人員も多かったので、そういった方々に面倒を見ていただいたりしました。でもその後バブルが崩壊し、仕事も徐々に減っていくに従って人も減っていきました。
ーーバブルの時は売れていたのですね。
そうですね。工芸あるあるだと思うのですが、今ではなかなか売れないっていう値段のものが100個売れるとかそういう時代でした。今だと5個売れても驚きますよね。
ーーゆくゆくは家業に入るというお話があったのでしょうか?
話は全然ありませんでした。野球が好きなこともあり体育が得意だったので、その流れで体育の教員免許を取りました。大学の教育実習のため、自宅から地元の学校に通いました。その時になんとなく実家の仕事や生活のリズムを見ているうちに、それまでは教員を目指していたけれど決まったレールの上に人生があるように思えて、逆に家業のことも将来の選択肢の一つとして考えるようになりました。
ーー実際に後を継いでみていかがでしたか?
私が教員にはならず家業に入った時はバブル後ですごく暇でした。月曜火曜は畑で草刈りとか、そういう状態でした。売上はありませんでしたが体は強かったので畑仕事で家族に貢献できているという思いはありました。私自身と妻も入社したので本当は売上が上がらないといけないはずなのですが、むしろ売上が落ちていました。しんどい時期でしたね。
ーー家業の修行はされたのでしょうか?
祖父が優しく教えてくれました。祖父に「ちょっと手伝ってくれ」と呼ばれて「手伝って」いるうちに仕事を覚えていきました。「教えてやるからやれ」という感じではなかったので気持ちの面ではスムーズに入れていました。実際どちらでもやることは同じかもしれないのですが、今改めて考えると「手伝って」というのは絶妙ですよね。
ーーひととおりの工程をお爺さまから学んだのでしょうか?
全部の工程を一通り経験し、今は全部できるようになっています。今は少し離れていますが金継ぎ(きんつぎ)の作業も全部私が担当していました。
ーー最初から塗りも担当されていたのですか?
塗りの作業は祖父から私や父に任せるようになり、祖父は下地工程を担当するようになりました。塗りの仕事は花形なのですが、地道に下地や拭き上げという前工程が重要で、そこがしっかりしていないとだめなんです。祖父がその部分を支えてくれていました。
ーー塗りの工程もそれはそれで難しいのだと思いますが・・・
誰でもたぶん塗ることはできるようになるんですが、100個並んでいるものを全て同じクオリティで塗る必要があります。また、1日200個のスピードでやる必要があります。数とスピードが重要で、数ができるようにならないと話になりません。
ーーそこまでできるようになるまでに一般的にどれくらいかかるものなのでしょうか?
いやあ10年くらいはかかりますかねえ。手を動かす回数とか余計な動きをしないというのも大切です。塗ってみて感覚だけで一定の塗膜になっているかを見なくてもできるようにならないといけないです。毎回、目でチェックしていると時間がかかってしまいます。丁寧に塗っていると1日10個しかできないということもありえます。通常は研ぎ3年、中塗り3年、上塗り10年みたいなのはあるのですが、私は入社してすぐ1日目から塗っていました。
ーーということは、1日に塗る数を決めてからやられていたのですか?
はい、私は最初は数を決めてやっていました。そうすると時間に終わらないので深夜1時や2時まで塗っていたこともあります。夜にNHKのラジオ深夜便を聞くと残業をバリバリやっているんだなというイメージがありました。「これを今日やっておくと1週間後ちゃんと納められる」といった感じで、納期が決まっていますので段取りを考えながらやっていました。しかし、途中何かが狂ってしまうと直前に残業して作らなければならなくなっていました。
ーー今では残業はなくなってきたのですか?
今はお仕事をもらうときに十分日数をもらってできるようにしています。仕事をもらうときに「今は混んでいるのでその後ですよ」ということをちゃんとお伝えするようにしています。
新ブランド立ち上げ秘話
ーー新しいブランドは内田さんが立ち上げたのですか?
業務用だけではなく、自社ブランドを立ち上げようと考えました。父親からは徐々に私がやりたいことを少しずつやらせてもらって、新しいブランドを立ち上げていきました。
ーー新しい色の『aisomo cosomo』の商品はどんなきっかけで生まれたのですか?
経済産業省ブースで「東京インターナショナル・ギフト・ショー」に出展したことがきっかけでした。無料で展示できるということだったので、喜んで長年の技術を売り込んでみようと考えました。東京に4日くらい滞在していましたが、その間1個も売れず、引き合いもそんなになく、惨敗の惨敗でした。そこで、何か売れるものを作りたいと思いました。そこで知り会ったデザイナーの人が新しい色のデザインを提案してくれました。それがaisomo cosomoが生まれたきっかけの提案でした。
* aisomo cosomo紹介 漆琳堂ホームページより
ーーデザイナーさんとの出会いは大きかったのですね。
大きかったです。お話ししたところこの人は真剣だなと感じましたのですぐスタートしました。6色展開の提案でしたが、それぞれ1つの椀に2つの色を組み合わせるというところをデザイナーの方に決めていただき、サンプルをご提示しました。今から思えばその頃は暇だったのでできたのかもしれません(笑)
ーー新製品は売れたのでしょうか?
私たちはそれまで業務用しかやっていませんでしたので、“作ったらすぐ買い取ってもらえる”ものと思っていました。なので、このデザイナーの方にも、作ったら買ってください、って言っていたんです。いまなら絶対言わないと思うのですが、そんなことを言っていたんです。そのときは、売るのはメーカーだということがわかっていませんでした。デザイナーの方はそれを聞いて、売ってもらえる小売店を探しますって言ってくれました。その結果、美術館に併設されているミュージアムショップで取り扱ってもらえるようになり、売れるようになりました。
ーーそれはよかったですね!
そのミュージアムショップで販売されているのを中川政七商店の中川政七さんに見つけていただき、お声掛けをいただきました。東京に来ませんかと。
*中川政七商店 大日本市ホームページより
ーーそれで、東京に行かれたんですか?
今だと忙しくて行けなかったかもしれないのですが、その時はすぐ行きます!って言いました。暇だったからだと思います(笑)
ーー(笑)中川さんとお会いになった結果どうでしたか?
中川さんが主催されている大日本市という内覧会に出展しませんかとお誘いをいただきました。当時の大日本市は中川さんの商品がほとんどで、3社だけがそれ以外の出展でした。その中に入れていただき出展できたのです。そこから注文をいただけるようになり、順調に売れるようになりました。中川さんもその頃は店舗数が7、8店舗くらいだったと思うのですが、中川さんの店舗が増えるに従って売上も増えていきました。
ーーその結果、他からも問い合わせが増えたのではないでしょうか?
中川さんと競合するような会社さんだと中川さんのお店を見たとはおっしゃらないのですが、お話を聞いていると中川さんの商品をご覧になってお問い合わせされたとわかっていました(笑)
昔ながらの蓋つきのお椀はあまり売れません。それを今風の器を漆の技術を使って作るのがいいのだと思います。
「真似する側に回るな、真似される側でないとだめだ」
ーー商品を開発するにあたり大切にされていることはありますか?
ブランディングを目的としていますので、たくさん売れるというよりも会社のイメージが良くなるものを作ることを重視しています。もちろん売れて欲しいわけですが、漆というのを外さないようにしよう、テーブルウェアというところも長年やっていますのでそこは外しちゃいけない、ということを気にしています。また、他社に真似をされるのはいいのですが、真似はしたくないと思っています。そのため、他の会社が同じようなものを出していないかをちゃんと確認しています。私の祖父が「真似する側に回るな、真似される側でないとだめだ」と、ずっとそう言っておりました。
ーーでも真似されるのも嫌なものですよね?
工芸品というものは私たちの産地で1500年続いているのですが、誰でもできることだから伝わって来ているわけです。一子相伝の技術というのは途切れてしまうのですが、産地に関連する工場が200件もありますので、こうやって作るんだということをなんとなくみんなわかっています。真似しようとすれば誰でも真似できるわけです。工芸品というのはそれで長年続いているんですね。
私たちの製品も、もちろん真似されているものも多分あります。いや、見ているとめちゃめちゃ出てきているんですが、でも、うちがスタートだということに確信を持てていますので、それがブランディングだと思っています。
今後の展開
ーー今後の展開についてお聞かせください。たとえば海外展開はいかがですか?
もともと海外は難しいなと思っていました。食生活が違いますから、味噌汁を入れるお椀ですと言っても、向こうはご飯でも箸でもないですし、パスタとかカレーとかもお椀では食べられません。海外の市場調査も実施しましたが、結局「漆の椀を何に使うの?」という感じになりました。何より現在は新型コロナの影響もあり難しいということもあり、国内にもっと売りたいと思っています。
ーー国内向けにどのような取り組みをされる予定でしょうか?
EC(ネット販売)を強化したいと思っています。世の中のECの売上も伸びていると思いますが、生活を見直そう、家にいる時間を大切にしよう、食器を見直そうという流れもあると思っています。洋服は売れなくても食器が売れているそうです。私たちも業務用だけではなく、自社ブランドを始めていたことで売上を落とさずに済んでいます。逆に自社ブランドが強みになっていく気がしています。
ーーデザインのアイデアや商品開発は社員のみなさんで進めているのですか?
スタートは私起点が多いと思いますが、全員の意見を聞いて進めています。デザインなどはデザイナーの方にお願いしていますが、カメラでの商品撮影も自分たちでやっていますし、発送も自分たちでやっています。そのほかの作業もできるだけ自社でやるようにしています。
ーー普段からテーブルウェアに限らずチェックしていることはありますか?
海外のハイブランドのアパレルなどをチェックしています。黒に赤という柄を見ても、漆の発色の黒と赤とは違うけどもいい色だなとか、そういうことを考えたりしています。
ーー5年後10年後はこうなっていたらいいという夢はありますか?
ギフトショーなどは地方の人が東京に行くイベントですが、逆に東京の人が地方に来てもらえればいいなと思っています。1泊2日で旅行に来ていただくとか、長期滞在していただけるようになるといいと思います。しかし、食べるところや泊まるところが少ないという問題もあります。そう思っていると誰かやってくれると思うのです。カフェができるといいなと思っていたらカフェができるようになったりしています。そういうお店に器をご提供するくらいはできるかもしれません。
京都伝統工芸大学校から入社した嶋田さん
内田さんのインタビューに引き続き、職人の嶋田希望(しまだのぞみ)さんにもお話をお伺いしました。
ーー自己紹介をお願いします。
京都伝統工芸大学校を卒業してこちらに入社しました。漆工芸を専攻していました。高校時代に美術館に行く機会が多く、伝統工芸展に行ったことがありました。畳一畳分の大きなパネル作品があったのですが、その芸術作品は漆を使って描かれていたんです。それで漆に興味を持ちました。
ーー大学校に入ってみていかがでしたか?
漆を塗る作業が楽しかったです。塗った艶(つや)が好きというよりも、自分の塗り方の癖や加減によって表情が変わるところが好きです。
ーー難しいところってどういうところですか?
学校では塗りの作業は最終工程なので、その準備段階の下地作業が好きだと思っていましたが、会社に入ってみると下地ではなく塗りがメインになってきました。教わった通りにやってみて1個1個完成していくスピードが速くなったりすると「できてるな」というふうに思います。しかし、1日100個という数を塗るのですが、1から100まで同じように仕上げるのはなかなか難しいなと思っています。
ーー職人になりたいと思われたのはどういうきっかけですか?
職人になりたいというよりも、ものを作る仕事をしたいと思っていました。それがたまたま漆で職人の仕事だったという感じです。
ーー職人の世界は厳しいというイメージもありますが、どうでしたか?
元々はあまりそういうふうにイメージはしていませんでした。実際自分の目で見て厳しいんだということに気づきました。でも、今の作業は好きな作業で、色々チャレンジできますし、楽しいです。
ーー手荒れなどは気になりませんか?
爪に漆が入ると乾くまで取れないですし、乾いてもなかなか取れないので、常に手は汚れているのですが、私はあまり気になっていません。
ーーほかの工房の職人さんと交流はありますか?
同じ年くらいの方がたまたまいて、その人とは仲良くしています。その人がいろいろ企画してたまに集まったりしています。が、本当にたまにです。どちらかといえば漆専攻の人はちょっとなんか奥手っていうかもくもくとした人が多い気がしています。自分の偏見かもしれませんが・・・・
ーーお仕事はどなたから習っておられるのですか?
内田さんです。OJTですね。内田さんの仕事を見ていると、私はまだまだだなと思い、どうすれば近づけるかなと常に考えています。さらっとやってしまう内田さんはすごいなと思います。
ーー内田さんは話しやすい上司ですか?
はい。私が入った時には家族だけの会社の中に外から来た私が入った状態でしたので、家族に入れていただいている感じでした。いまだにその雰囲気で来ているというのもあります。入社する前は、東京の店に商品が置いてあるくらいですから、会社には社員がもっといて、しっかりとした生産体制があるんだろうとイメージしていたんですが、実際に入ってみてびっくりしました(笑)
ーー後輩が入ってこられていると思いますが、いかがですか?
技術面だけではなく、人間関係みたいなところも学びがあります。それまではとにかく塗るのが楽しい毎日だったのですが、技術的なことだけではなく、後輩の手本になれれるように頑張らなきゃと思っています。あまり先のことというよりも、まず目の前のことをちゃんとしたいなというのがあります。
ーーチャレンジしたいことはありますか?
すでにいろいろチャレンジさせてもらっていますが、塗りの仕事をもっと任せてもらえるようになりたいです。
編集後記
「この刷毛の毛は何の毛だと思いますか?」
正解は「人の髪の毛」でした。実際には日本人の一般的な髪の毛ではなく、あまり髪の毛をシャンプーで洗髪していない地域の方の髪の毛を使っているのだそうです。皆さんは正解でしたか?
今回、印象に残った言葉は、「真似する側に回るな、真似される側でないとだめだ」でした。つい真似されないようにどうしようかと考えてしまうのですが、真似された時にも一番最初に初めたということがブランドになっていくのかもしれません。